灰と光 | 大分アントロポゾフィー研究会

大分アントロポゾフィー研究会

ブログの説明を入力します。

・・・人間の体(たい)は、光だ・・・

 

“六日ののち、イエスはペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変わり、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。・・・”(「マタイによる福音書」第17章)

 

偽りの自我が、あなたの魂を支配するなら、あなたの体はくもり、やがて死の色がはりついて、体は灰となる。

偽りの自我はミームから生まれ出でた(いでた)もの、霊的生命を持たぬものだ。エゴイズムとマテリアリズムに則って、ミームのアルゴリズムに依存しながら、その命脈を保つ。

作為と予断とが常にはたらいている。

 

偽りの自我の作為と予断が終わるとき、新しきものとしての本来の自我が姿を現す。

それは、直観であり、本来の思考としての純粋思考であり、そして何よりもそれは、霊である。

 

霊はミームに由来するいかなるシナリオも拒絶する。なぜなら、それが霊の出現を妨げる最大の障壁だからだ。

まだ力及ばず弱い私は、いつの間にか、ミームのシナリオに取り込まれ、それに依存して、日々の暮らしを営むのだ。そして、何か自分に都合の悪いことが起こってくると、それを他者のせいにする。そんなことを繰り返している。

 

つまり、「他者のせいにする」、果ては、あろうことか、自分自身を他者とみなして排除する、すなわち「自己疎外」「自己否定」にまで至る、そのような偽りの自我に特徴的な心性は、ミームのアルゴリズムとそれに由来する本来的にセンチメンタルなシナリオから生まれてくる。霊からますます遠ざかる。

 

もし幸運に恵まれるならば、あなたはやがてそうしたシナリオの終わりに至る。そして、あなたは目にするのだ。生と死の深淵を。

このシナリオの終わりを、俗流ハルマゲドンの迷信の類と混同することは許されない。なぜならそれは、マテリアリズムとは無関係だから。

 

いずれにしても、ミームのシナリオは、私たちの魂に深く根差す反感と疎外の力学とを、その推進力として展開する。これこそが、エゴズムの本質である。

 

さて、あなたはいくつもの試練を経て、そのようなシナリオの終わりに到達する。

その場所は、生と死の深淵であり、霊の国へと入ってゆく境域だ。

あなたは、自らの純粋思考によって、その光景を目の当たりにするのだ。

 

だから、日々注意深くあらねばならない。

 

“またオリブ山にすわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとにきて言った、「どうぞお話しください。いつ、そんなことが起こるのでしょうか。あなたがまたおいでになる時や、世の終わりには、どんな前兆がありますか」。そこでイエスは答えて言われた、「人に惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。また、戦争と戦争のうわさを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。それは起こらねばならないが、まだ終りではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。そのとき、多くの人がつまずき、また互に裏切り、憎み合うであろう。また多くのにせ預言者が起って、多くの人を惑わすことであろう。また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そしてこの御国の預言は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。・・・」”(「マタイによる福音書」第24章)

 

“「・・・これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代は滅びることがない。天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。・・・だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。・・・」”(「マタイによる福音書」第24章)

 

個々の魂が、いつ、どのような経緯をたどって、ミーム・シナリオの終わりに到達し、境域を目にすることになるか、それはその当人も含めて誰も予見することはできない。なぜなら、偽りの自我であるペルソナは自らの終わりを含意していない。ペルソナにとって、それは常に想定外だ。

 

「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。」と、キリスト・イエスは語る。

「天地」とはこの地上の世界、そして「わたしの言葉」とは純粋思考であり、霊である。物質は滅んでも、霊が滅びることはない。物質が滅ぶとは、その物としての形態を失うという意味である。ちょうど、人が死ねば、その肉体は形を失って、土にかえるのと同じだ。

「その日、その時」を「父だけが知っておられる」のは、この天地を創造したのが、他ならぬその「父」だからで、「父」だけが「天地」の展開するスケジュールを知っている。なぜなら、彼がそのスケジュールを決めたのだから。

もちろん、これらの霊的な事柄について、地上の言葉で語ることは、本当のところ適切ではないとは思いつつ。

 

いずれにしても、この文脈においては、人間の魂と霊的な事柄とが二重写しになっていることに注意を払わなければならない。

そして出来事の起こるその場所は、他ならぬ、人間の意識魂だ。悟性魂/心情魂が終わると、新しきもの、意識魂がその姿を現す。もちろん、それは生易しいことではない。人は数知れぬ試練の末に、それを垣間見るようになる。

 

悟性魂/心情魂は、意識魂に敵対する。自らの存在基盤が失われるという恐怖の故に。

意識魂が悟性魂/心情魂を包容すれば、霊が復活を遂げる。

「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」というキリスト・イエスの言葉が意味するところである。