人は、「我思う、故に我在り」というイントゥイションとともに、自分が霊/Geist/spirit であることを知る。
この純粋な思考である直観から、霊をものやイメージのように考えることはできないと、人は知る。
霊は人間の自我に比すべきもの。
その自我を、人は恵み多きイントゥイションによって知っている。
このイントゥイション/直観が土台となって、イマジネーション/感覚とインスピレーション/思考が展開し、霊的他者の認識/更新されたイントゥイションに至る。
霊をものやイメージのように空想することは、迷信というものの大きな特徴である。きわめて主観的でありつつ、そうであるが故に、歪(いびつ)なまでに唯物論的だ。
主観的であることが、エゴイズムの本質だ。
このとき、主観の対極に客観があるかと言えば、どこまでも主観的であることに気づくことができればまだいい。通常は、どこまでも主観の空間が続いているばかりであることに思い至らないのである。
もう一点強調しておかなければならないことは、主観と自我とは別物だということだ。
主観の道をどこまで行っても、本質的なイントゥイションとしての自我にはたどり着かない。
主観は感受の道、つまるところ受け身である。常に与えてくれることを待っているのだ。好ましければ〇、よくなければ×。受け入れるか、受け入れないか。受け入れることでペルソナが肥大する。ペルソナが受け入れなければ、それは排除され、架空の外部、偽りの他者/シャドーとして疎外される。
これが、エゴイズムの力学だ。偽りの自我は、そのように機能する。自らを守るために。
そのようにして自らの内に閉じこもり、他者を排除し続ける。その他者が霊であるかもしれないのに・・・。
主観的な人は、その主観性を強め、その主観のミームへの依存度を増すにしたがって、じきに迷信の道に迷い込む。
迷信も一種のミームである。
ミームは霊ではない。
本来の自我は霊であるが、偽りの自我であるペルソナは霊ではない。ペルソナはミームの一種である。