高次の霊的ヒエラルキアとアーリマン/ルシファーによって形成されたミームに従って、自らの生活を形づくってきた人間は・・・
21歳までに悟性魂/心情魂は一応の完成を見るとはいえ、その後の人生経路次第で人は自らの悟性魂/心情魂をその都度更新する必要に迫られる。
人類の自我は意識魂を志向しているが、個々の人間はそんなにすぐには意識魂の獲得には至らない。
“・・・私たちが高次の発達を遂げるようになると、それまで思考と感情と意志という三つの基本的な力を結びつけていた糸は断たれることになります。・・・
・・・思考と感情と意志の器官は、それぞれ自由に、独立して存在するようになります。これらの器官は、もはや器官それ自体のなかに内在する法則をとおして結びつくことはありません。私たちは目覚めた高次の意識をとおして、自分自身でこれらの器官を結びつけなくてはならないのです。
学徒は自分のなかに変化が起こったことに気づきます。すなわち学徒がみずからそうしようとしない限りは、観念と感情が、あるいは感情と意志決定が、ひとりでに結びつくことはなくなります。また学徒は、何らかの衝動をとおして、ある思考をもとにして特定の行動を取るように駆り立てられることもありません。学徒は自分自身のなかに、自発的に衝動を呼び起こさなければならないのです。・・・
このようにして神秘学の学徒は、三つの魂の力の相互作用を完全に支配することによって、重要なことをなしとげます。そしてこの際、どのようにして三つの魂の力を相互に作用させるか、ということは、完全に学徒自身の責任にゆだねられているのです。
自分自身の本質をこのようにして変化させることによって、ようやく学徒は特定の超感覚的な力や存在と意識的に結びつくことができるようになります。思考・感情・意志という学徒自身の魂の力は、それぞれ、世界のなかの特定の基本的な力と類縁関係にあります。・・・”(ルドルフ・シュタイナー『いかにして高次の世界を認識するか』松浦賢訳 柏書房 p. 217,218)
人は一応の完成を見た自らの悟性魂/心情魂を必要に応じて更新しながら、今生の生活を営むが、やがて悟性魂/心情魂の枠組みでは対応することのできない出来事に遭遇する。
高次のヒエラルキアとアーリマン/ルシファーによってあつらえられたミームが通用しなくなる。
このような事態が生じるのは、いわばカルマ的な必然であり、ここに人類のカルマ、諸民族のカルマ、そして個人のカルマが交差している。
カルマの本質は自我であり、自我の本質はカルマである。カルマとは自我である。
自我の中をのぞきこむことができれば、人はそこにカルマを見出すだろう。カルマに近寄って、それを観察すれば、人はそこに自我の記憶を見出すだろう。
自我が、魂の三つの力である思考、感情、意志を統べることができるようになるまで、自我/カルマはその本当の姿を現すことはない。
意識魂はいまだ目覚めておらず、悟性魂/心情魂は、ミーム/ペルソナ/シャドーの人生ゲームを継続する。
人が悟性魂/心情魂として、ミーム由来の人生ゲームを続ける限り、それは記憶にはならない。
人が自我存在として、カルマ由来の出来事に遭遇し、その出来事に意志的思考を以て対峙するときに初めて、自我存在として出来事に関与した記憶が形成される。これによって、自我存在としての人間は成長を遂げ、その人のカルマもまた練り上げられ、人類の記憶が更新される。
自我が関与しなければ、記憶は形成されない。
このような出来事は、起こるべくして起こるように見えるので、この地上の物理的時間の枠組みから見ると、それはあたかも未来からの知らせのようにも感じられる。いずれにしても、それはカルマから来るものだ。自我/カルマがそれを要求し、人はこの地上における今生でそれを目の当たりにする。人が目にするそれは、いわば未来のその人の相貌だ。
多くの場合、人はそうしたカルマ的な出来事の生起を見過ごしてしまう。魂の準備ができていないからだ。
悟性魂/心情魂が、ミーム/ペルソナ/シャドーの人生ゲームに明け暮れている限り、出来事はその人の脇をすり抜けて過ぎてゆく。その人には目もくれず。まるで何事も起こらなかったかのように。やけに騒がしく虚しいだけの人生ゲームを生き急ぐ。数限りないイベントやエピソードには事欠かないが、カルマ由来の出来事は起こらない。
“・・・神秘学の学徒が何よりも心がけなくてはならないのは、まず思考・感情・意志という三つの基本的な魂の力を調和的に発達させてから、そのあとで三つの魂の力の結びつきを解き、目覚めた高次の意識によってこれらの力を支配するようにすることなのです。”(ルドルフ・シュタイナー『いかにして高次の世界を認識するか』松浦賢訳 柏書房 p. 221,222)
「目覚めた高次の意識」とは、意識魂と言い換えてもいいし、純粋思考と言ってもいい。
また、それは高次の自我と呼ぶこともできる。
自我とはつまるところ意識であり、より正確に言えば、イントゥイションとしての意識である。
ここにデカルトの「我思う、故に我あり」の命題が言わんとするところがある。
確かに0歳から7歳までの時期の子どもの体とその成長と、そして身振りには純粋思考がはたらいているが、それは高次の霊的ヒエラルキアの純粋思考であり、その子どもの自我の成す思考ではない。
だから、当然のことながら、子どもは自らの体とその体にまつわる事柄のすべてについて、イントゥイションとしての意識をもちえない。なぜなら、子どもの体にはたらく純粋思考は、子ども自身が成しているのではなく、霊であるとはいえ他者に他ならない霊的ヒエラルキアのものだから。自分ではない他者、そしてそのような他者の成す事柄との関係性において、イントゥイションはあり得ない。
0歳から7歳までの時期に人間は、重力と三次元空間によって条件づけられたこの地上の世界を生き抜くための基礎づくりをしている。
もちろん、まだ体も魂も十分に成長していない子どもが、まったくの自力でそれを成し遂げることはできない。高次の霊的ヒエラルキア存在たちと人間の養育者が、それを支える。環境を整える。
すると、まだ幼いその人間に備わる根源的な意志、その人間が自らの前世(ぜんせ)から携えてきた意志が、その人間自身の今生を推進するための霊的衝動としてはたらくのだ。
幼い子どもが、自らの意志の作用機序と霊的ヒエラルキア存在との関係性を意識することはない。
いずれにしても、子どもは船出したのだ。重力が支配する三次元の閉ざされた空間に。そこは死と恐怖があるだけなのかもしれないのだが。
無謀な旅立ちなのかもしれない。
だが、いずれにしても、あなたの意志がそれを望んだのだ。
あなたの意志とは・・・それはあなた自身だ。
あなたはいくつもの今生を経てきた。
それら一回一回の今生において、あなたは何人もの他者に出会い、忘れることのできない数々の出来事を体験し、この上ない時を共にし、・・・そうしてあなたのカルマは織られたのだ。
カルマは根源的な意志だ。衝動の源だ。
そしてカルマはあなた自身だ。
カルマの時間は、地上の三次元空間に流れるかに思われる物理的な時間とは異なる。
カルマにおいて、過去-現在-未来という枠組みは意味を成さない。なぜなら、カルマの時間はそのように過去から未来へと流れることはなく、その意味で、そもそも時間という言葉が意味を失うからだ。
この予感に衝き動かされて、例えばリヒャルト・ヴァーグナーは、「ここで時間が空間となる」(「パルジファル」)と語り、シュテファン・ツヴァイクは、「人類の星の時間」を巡る言葉を紡いだのだ。
結論めいたことを先に言えば、このシナリオこそが究極の秘儀、自我の秘儀である。