0歳から7歳
エーテル体。
感覚魂。
意志。
重力と三次元空間の世界へ。感覚の世界へ。
物質体に受肉したことを直観する/実感する。
自分が肉体の内部にあり、その肉体を通して、外的世界と相対している現実に直面する。
他者の模倣を通して、体の動かし方/立ち居振る舞いを習得する。
エーテル体/物質体の形成とその動きの中に、高次の霊的ヒエラルキアの純粋思考がはたらいている。
7歳から14歳
アストラル体。
心情魂。
感情。
イメージの世界へ。夢見る主観世界へ。
“・・・たとえば、どんな子供の場合でも、学齢期の途中で、ほぼ9歳から11歳の間に、一つの実に難しい時期があるものです。この時期のことを、教育者が見逃すことは許されません。・・・この9歳から10歳の間に、子供の心に「自分は世の中とどんな関係があるのだろう」という問いの生じる時点が参ります。・・・この問いは、はっきりしない感情の形で不満足な気持ちの中に現われてくるのです。・・・子供は突然、自分が孤独であると感じます。子供は突然、接触を求めます。これまでは、大人の権威を自明のものとして受け取っておりましたのに、突然この時期に「いったいこの権威とは何だろう」と問うことが始まるのです。この瞬間に適切な言葉を見つけるか否かに、人間の後の全生涯にとって言い知れないほど多くのことが、かかっているのです。”(ルドルフ・シュタイナー『教育の根底を支える精神的心意的な諸力 - オックスフォード講演 -』新田義之訳 人智学出版社 p. 25,26)
突然(!)、人は感じる。自分が本来の故郷を離れて、見知らぬところへとやって来たことに気づく。しかし、そのとき人は、その気づきを適切に表現する術を知らない。故郷を喪失したさすらい人であるという感じは拭い去ることができない。もちろん、その故郷がどこなのかもわからない。
このとき人は、存在の深淵をのぞきこんでいるのだ。人は死の恐怖に直面する。
この虚無主義/ニヒリズムを乗り越えるためには、思考だけが頼りになる。
「この瞬間に適切な言葉を見つけるか否かに、人間の後の全生涯にとって言い知れないほど多くのことが、かかっているのです。」
「適切な言葉」を拠り所にして、自らの思考を活性化する。最初は、悟性的思考であっても、それはやがて意識魂に脈打つ純粋思考に成り得る。「適切な言葉」には、純粋思考/霊的生命が秘められている。
「適切な言葉」が子どもの感情を喚起し、その感情はやがてファンタジー/想像力へと成長する。純粋思考/霊的生命に根差したファンタジーだ。その感情はいわゆる「大洋感情」で、それは死とニヒリズムの対極にある。
cf. オキシトシン
悟性的思考の仮象世界を通過して、純粋思考の霊的リアリズムへと至る。もちろんそれは、7歳から14歳の子どもになしうるものではない。
とはいえ、人類の自我はそれを志向している。
14歳から21歳
高次のアストラル体。低次の自我。
悟性魂。
悟性的思考。
思考を発達させることによって、人はシナリオを編み始める。
人はシナリオによって、自分の意志と感情を操作する術を得る。
ただし、この段階のシナリオは、多かれ少なかれ因習的で、その人の生きる時代や地域に特徴的なミームの支配下にある。
ミームが人の悟性魂/心情魂の内に浸潤してくる。同時に、ミームに由来する過去から未来へと流れるかに思われる物理的時間が、人の悟性魂/心情魂をがんじがらめにする。ミーム的錯覚である物理的時間に囚われるかたちで、人は人生のシナリオを編み続ける。
エゴイズムとマテリアリズム。情念と物欲。
“神秘学の学徒が訓練を続けるうちに、より繊細な体(たい)であるエーテル体とアストラル体に大きな変化が生じます。このような変化は、意志と感情と思考という、魂の三つの基本的な力が発達していく過程と結びついています。私たちが神秘学の訓練を始めるまでは、これらの三つの力は高次の世界の法則によって支配されながら、特定の形で結合しています。私たちは好き勝手に意志を抱いたり、感じたり、考えたりすることはありません。たとえばある観念が意識のなかに浮かび上がってくると、自然の法則に従って、特定の感情がこの観念に結びついたり、一定の法則に従って、この観念と結合する意志決定が行われたりします。・・・このように思考と感情と意志は、素朴な形で結びついています。人間の生活を概観してみると、人生のなかに生じる事柄はすべて、このような思考と感情と意志の結合に基づいていることがわかります。思考と感情と意志が人間的な本性の法則に基づいている場合にのみ、人間の生活は「ノーマルな」ものと見なされます。・・・
一般的な教育に関しても、私たちは、「人間的な本性にふさわしい形で生徒の思考と感情と意志を結びつける」という前提に立ちながら、将来正しい教育や適切な授業が豊かな実を結ぶことを期待します。・・・
生活のなかで思考と感情と意志がこのように結びつくのは、人間のより繊細な体であるエーテル体とアストラル体のなかに存在している、思考と感情と意志という三つの力の中心が、一定の法則に従って結びついているからです。繊細な魂の有機体におけるこのような結合は、より粗雑な体である物質体のなかに反映されています。物質体においても、意志の器官は、一定の法則に従って思考や感情の器官と結びついています。そのためある思考は、一定の法則に従って、特定の感情や意志の活動を呼び起こすのです。”(ルドルフ・シュタイナー『いかにして高次の世界を認識するか』松浦賢訳 柏書房 p. 215~217)
「人間的な本性にふさわしい形で生徒の思考と感情と意志を結びつける」ことによって、悟性魂/心情魂の完成を目指す。
その土台は感覚魂にあり、感覚魂の拠り所は物質体である。それが感覚器官とこの地上の世界における生活の発するところであるから。
物質体を生命あるものとするのがエーテル体であり、物質体/エーテル体には高次の霊的ヒエラルキアの純粋思考がはたらく。
人がこの地上を人間存在として生きようとすれば、つまり自我存在として生きようと欲するならば、人は物質体の内に、まずは魂として生きなければならない。そのとき魂は、まずは悟性魂/心情魂である。
人間的な本性にふさわしい形で思考と感情と意志とが結びつけば、悟性魂/心情魂が完成する。
悟性魂/心情魂における思考・感情・意志のふさわしい結びつき方は、その時代、その地域に特徴的なミームによって規定される。
構造主義者は、個々のミームによって規定される思考・感情・意志の結びつきは恣意的であると言う。これは、構造主義が霊的リアリズムに基づかないことの証拠であるが、半面の真実を明らかにはしているのだ。
個々のミームの相対性と、むしろそれゆえの地上世界の豊穣と多様性とを。
ミームの内にはたらく高次の霊的ヒエラルキアと、そしてアーリマン/ルシファーを。