「光はやみの中に輝いている」(ヨハネによる福音書) | 大分アントロポゾフィー研究会

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光とは 自我の 謂い。

自我とは 意識の 謂い。

自我の光が 外なる闇を 照らすと

外なる闇の方から ありとあらゆるものが はね返ってくる。

あたかも 鏡のように 光に照らされたものが 反射するのだ。

 

そのように 内と 外とが 存立するのは 当然の成り行きだ。

神が 初めに 「光あれ」と言い その光と闇とを 分けたのだから。

 

光は 自我で 闇は 外なる世界だ。

それ以来 光は 闇の中に 輝いている。

 

人類の歴史は 人類の記憶は 自我が 刻む。

自我の成す 意志的思考が 歴史/記憶を 刻むのだ。

意志的思考とは 純粋思考の 謂い。

自我の成す 純粋思考が 光となって 闇を照らし 外なる世界を 俯瞰する。

光の照射と反射が 意識を生む。

 

“・・・モーセは神に言った、「わたしは、いったい何者でしょう。・・・」神は言われた、「わたしは必ずあなたと共にいる。これが、わたしのあなたをつかわしたしるしである。・・・」・・・神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。・・・これは永遠にわたしの名、これは世々のわたしの呼び名である。・・・”(「出エジプト記」第3章)

 

“・・・そして主はカインを見付ける者が、だれも彼を打ち殺すことのないように、彼に一つのしるしをつけられた。・・・”(「創世記」第4章)

 

神の言う「わたしは必ずあなたと共にいる」とは、人間の自我の生みの親である神、いやいやむしろそうではなく、自我こそが神なのだ。その証拠に、神はモーセに「わたしは、有って有る者」と語り、神が有って有る者/自我/わたしであると明言しているのだから。

自我こそがしるしである。人間であることの証である。

そのしるしは、すでにカインにもつけられた。そうだ、情念の嵐に苛まれて苦しむあの原現代人とも言えるカインにも。

 

「わたしは、有って有る者」。神自身が語るように、自我こそが永遠に神の名であり、人類の歴史/記憶を貫く神の呼び名である。

そのしるしを私たちは担い続けるのだ。