思考の道行き | 大分アントロポゾフィー研究会

大分アントロポゾフィー研究会

ブログの説明を入力します。

思考が対比の間合いで前進する。

 

真ん中に留まり続けることはない。右に行ったままはあり得ない。左もまた同じ。

そうした対比の間合いが、この宇宙には限りなく観察される。

左に行き過ぎると右のものは見えなくなり、右に行き過ぎると左が見えなくなる。

真ん中にいて左右に平等に目配せをしようとすると、目が回ってどちらも見えなくなる。

 

だから思考は物事を焦点化して一点を見つめる。

あなたの目が一度にすべてを見ることができず、複数の対象を同時に追うことができないのと同じだ。

だから思考は絶えず、右に行ったと思えば今度は左に行くことを繰り返す。

そのような繰り返しの中で、方向性が定まってくる。そして思考は前進して、やがて目標地点に到達する。

 

目標に達して、成就したその思考は、確かに終わるが、その終わりは新たな始まりでもある。新しい思考が産声を上げ、その新しい思考自身の歩みを始めるのだ。

前の思考と新たに生み出された思考とのつながりは明らかだ。個々に別の思考だが、強い関係性がある。

このような関係性を内的必然性と呼ぼう。

 

例えば、キリスト・イエスは弟子たちと対話を成した。

このような対話の中で、いくつもの思考が生まれ、成就し、そして新たな思考が生まれたのである。

弟子たちの魂の成熟度合いから、悪魔的存在に誘惑され、彼らは試練にさらされ続け、敗北し続ける。

いずれにしても、いくつもの敗北にもかかわらず、弟子たちは・・・を目指すことをやめなかった。もちろん、それは、ある意味、終わりのない旅路だ。しかしその旅の途上で、彼らは祝福を受ける。恩寵を得る。そのことを力として、さらに旅を続けるのだ。

キリスト・イエスと弟子たちの対話によって深められ、成熟していった思考は、やがて聖霊降臨の出来事へと至る。

 

キリスト・イエスと弟子たちの関係性の中に、私たち自身の本来の姿、本来あるべき私たちの生活の本質的部分を私は認める。

弟子たちにとって、キリスト・イエスは唯一の「あなた/Du」として、彼らの「わたし/Ich」に対峙し続けた。もちろん、彼ら一人一人の「わたし/Ich」に向き合っていたのだ。

弟子たちはキリスト・イエスにとって生徒であり、弟子たちは教師であるキリスト・イエスと対話を成す中で思考を前に進めた。

 

私の「わたし/Ich」の前に、「あなた/Du」としての他者がいることによって、対話が成り立つ。対話こそ、思考を力強く前に進めるうってつけの場である。

「わたし/Ich」と「あなた/Du」。これこそもっとも直接的な対比の間合いである。

ここに「2」という数字/数があり、対比を可能にするが、この数字は他者の存在を意味する神秘的な象徴文字であるとみなせる。

 

思考の基本的な性格として、「2」を契機/媒介として「3」に至るということを考えれば、では「3」とは何かという問いが出てくる。

もちろん、それはそれまでは存在しなかった何ものかであり、それ故まったく新しい何ものかでもある。

一人ひとりの今生の個が、その人の誕生によって初めてこの世に存在するようになり、その人の一生が終わりを告げると、もはやその個のコピーは二度とこの世には現れない。そのような意味において、思考は唯一無二のもの「3」に至る。

 

ミームにコピーはあり得ても、霊にコピーはあり得ない。

霊に由来する魂にもコピーはあり得ない。

だが、魂に巣食うミームはコピー可能である。だから、ミームに囚われると魂はその本来の性質である複製の不可能性において弱体化する。このように弱体化した魂のことをペルソナ/仮面と呼ぶことができる。

ペルソナ/仮面としての魂は、自分を失い、自分ではない何者か/他者のふりをする。演技する。

 

ペルソナ/仮面において、本来の思考は働いていない。そこでは、何らかのミームのアルゴリズムの追認/確認が進行する。ミームのいわゆる悟性的了解である。

これが思考ではないことを悟性魂/心情魂は自覚しない。

 

だから、悟性魂/心情魂において、思考として特徴づけることができないミームのアルゴリズムの追認/確認がある。この場合、あなたはミームのアルゴリズムのコピーとして行動する。思考は停止し、消失しているに等しい。

あなたの自我は消失している。その代わりに、あなたはペルソナ/仮面として振る舞う。もちろんペルソナ/仮面はあなたではない。

ペルソナ/仮面として振る舞うあなたは、ミームのアルゴリズムを無為になぞっているにすぎない。

すべてのミームは、アーリマンがその土台と枠組みを提供する。そしてルシファーが不浄な情念の炎を焚きつける。

徹底した唯物主義/物質主義と底なしのエゴイズム。

だから、ペルソナ/仮面のあなたは、右に行けばアーリマン、左に行けばルシファーの眷属そのものだ。

 

あなたが、自分はアーリマンだとか、ルシファーだとか感じるようになれば、それはよいことだ。

多くの場合、そのようには感じずに、他者を疎外/攻撃し続けるのだから。

 

自らのアーリマン性とルシファー性に気づくことができれば、・・・そこから思考の営みが始まる。

ミームのアルゴリズムに潜むアーリマンとルシファーの正体を見抜かなければならない。

 

このようにして始まる思考が、本来の思考/純粋思考であり、そのときあなたは悟性魂/心情魂から抜け出して、意識魂の空間へとわけ入るのである。

そのときあなたは、あなたが何らかのミームのアルゴリズムを無為に追認しているのでなく、純粋思考を成していることを、「ととのう」とか「つながる」という感慨とともに了解する。インスピラツィオーンである。個々のインスピラツィオーンが終了/成就するとイントゥイツィオーンに至る。このとき、「ととのった」「つながった」という感慨が生まれる。

 

あなたは、あなた自身と宇宙の中に在って、完全に満たされ、安らいでいる。このような状態を観照と呼ぶ。本来の瞑想の状態であり、あなたはそのときアーリマン/ルシファーの誘惑と罠から遠く離れている。

 

あなたは純粋思考とともに一種の俯瞰的/鳥瞰的視野を獲得する。

 

このようにして、純粋思考は生命を賦活する。生命霊/霊的生命/ブッディである。

生命霊/霊的生命によって肉体/物質体が質的な変容を遂げ、霊人/アートマに至る。

だから、純粋思考こそが霊我/マナスに他ならない。

 

“・・・そして人間が、「絶えず分解と再生のプロセスの基礎となっている諸力」に目を向けるならば、それとともに新しい医学が誕生することになります。このような精神的な医学は、当然のことながら現代の医学とは別の形態を取ることになるでしょう。このような精神的な医学の真価は、単に「この医学によって病気が治療されるかどうか」ということを基準に判断することはできません。この新しい医学では、病気が治療されるわけではありません。と言うのも、このような医学が生まれるとき、現代の人間が欲しているように病気を治療することは、もはや問題ではなくなるからです。真の精神的な医学が誕生するとともに、人々は健康になるための力を全体性において受け取ることができるようになります。このような真の医学の本質は、「人間が諸力を支配し、絶え間なく続いていくみずからの分泌、分解、再生を生じさせることができるように、生命力を整えていく」という点にあるのです。一人一人の人間が、このような医学を単に自分という個人のみに適用するだけではなく、他の人々とともに生きることで、この医学が人間という種族全体へと入り込むことができるようにするならば、そのとき人々は薬剤師が調合した薬を必要とすることはなくなるでしょう。・・・”(ルドルフ・シュタイナー『悪の秘儀 アーリマンとルシファー』松浦賢訳 イザラ書房 p. 177,178)

 

「絶えず分解と再生のプロセスの基礎となっている諸力」とは、生命である。クンダリニーと呼んでもいい。

この生命でありクンダリニーであるものの流れが、質量において、弱められ、力を失ったり、人間自身の支配が及ばなくなると、さまざまな意識障害やいわゆる自律神経失調症、種々の自己免疫疾患が起こる。クンダリニー症候群である。

 

だから、「生命力を整えていく」ことが求められる。

生命力の乱れをひき起こす根本的な原因は、悟性魂/心情魂に巣食ったアーリマン/ルシファー由来のミームにある。

そして、ミームがクンダリニー症候群を招来する。

私はその人がそう考えていると思い込んでいるが、実際はそんなふうには考えてもいない。その人には私が何を言っても通じないと思う。実際にその人は私の話など聞こうとしない。

その人が見たと言い張る何かを私は見ていない。

違うミームからすれば、ある人には見えるが別のだれかには見えない。あたかも別の空間にいるかのように。

またある人は憶えている何かを他の人は憶えていない。

 

このようなミーム空間の恣意性に最大限注意深くあらねばならない。言ってみれば、これはアーリマン/ルシファーの魔術である。

実際には起こってもいないことが起こっているように思われたり、鳴ってもいない音や話されてもいない言葉が突然聞こえてきたり、誰もいないのに後ろに誰かいるように感じたりする。そのようにいわゆる幻視や幻聴、荒唐無稽の思い込みと空想が、悟性魂/心情魂を埋めるのだ。

ミームのアルゴリズムに囚われているとそのようなことが起こる。