イマギナツィオーンにおいて、霊的観察対象が観察される。
この場合、それらはイメージとして現れる。
それらのイメージが観察できる根拠がある。
それは、あなたがこれまでにそれらの観察対象/イメージを見たことがあるということなのである。
いまだかつて見たことのない何ものかを、それとして、何らかのイメージとして確認することはできない。
つまり、これまでに少なくとも一回は見たことがあるものだけが、あなたの前にイメージとして出現することができるのである。
そのような一種の符合があって初めて、それらは再び現れることができるのだ。
あなたは想起する。
これが、イマギナツィソーンの意味である。
そして、その霊的な性質上、それぞれのイメージはやがてつながり合い、相互の関係を明らかにする。
これはちょうど、出来事が生起するのに対応している。
出来事が生起するに際して、複数の霊的存在が遭遇し、対峙し合い、関係し合う。
ちょうどそのように、インスピラツィオーンにおいては、複数の霊的イメージが自律的に関係し合う。
そのように、インスピラツィオーンはすべての出来事と同様に、常に一回限りであり、常に新しい。繰り返しやコピーの利くミームとは異なっているのである。
その一回性と創発性において、インスピラツィオーンは稀有の体験であり、その意味において、聖霊降臨に等しい。
インスピラツィオーンこそ、意識魂における純粋思考の核心部分である。
イマギナツィオーンにおいて観察された諸々の霊的イメージを指標/拠り所にして、純粋思考が推進される。始めのうちは、その思考がどこへ向かうのか、到達点はどこなのか、はっきりしないが、思考の歩みの確実さに疑いを挟む余地はない。確実に前進しているという感じがあり、不安の念は起こりようがない。それどころか、・・・
すでに霊的イメージを観察する時点で、あなたの周りはいつもとは違う光に包まれる。
あなたはその霊的イメージに遭遇し、対峙している。
そしてやがて複数の霊的イメージがお互いつながり始めて、それぞれのイメージの意味がはっきりしてくる。
あなたの魂の中で、ひとつの霊的出来事が起こって、あなたはまさにその出来事の中にいる。
つまり、あなたがそこにいなければ、その出来事は起こりようがない、ということなのである。
つまり、霊的存在としてのあなたが、霊的他者としての何者かを、意識魂における純粋思考の光で照射すること、他ならぬ自我として他者に対峙することにより、あなたは霊たちの国の一員となるのだ。
これが、イントゥイツィオーンの意味するところである。
イントゥイツィオーンがあるからこそ、イマギナツィオーンが起こる。
イマギナツィオーンがなければ、インスピラツィオーンは起こらない。