聖と俗 | 大分アントロポゾフィー研究会

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聖なるものは、キリストから来る。

俗なるものは、アーリマン/ルシファーから来る。

 

理論の類は、すべてミームである。

ミームは、アーリマン/ルシファーに派生する。

 

高次の霊的ヒエラルキアは、キリストの体である。

アーリマン/ルシファーは、キリストの体ではない。

 

アーリマンは、アンチ・キリストである。

ルシファーは、アンチ・アンゲロイであるから、その意味において、やはりアンチ・キリストである。

 

人間は、その自我/霊/精神において、キリストに属し/キリストを仰ぎ見るが、人間の魂は、キリストとアンチ・キリストの境界にある。

なぜなら、悟性魂/心情魂には、アーリマン/ルシファーに由来するミームの浸潤が顕著であり、そのため人間の魂は俗なるものと化すから。

 

人がミームの縛りから脱したとき、その魂は意識魂へと変容を遂げ、そこに霊の光が輝く。

意識魂に輝くその霊を、キリストとみなすことは適切である。

そのとき、人間の自我/霊/精神が、キリストから来たものであることが明らかとなる。

 

“ノイデルフルで過した少年時代を振り返って、今も強く記憶に残っているのは、厳粛な音楽と共にとり行われる礼拝の儀式を目撃することによって、私たちの心の中に自ずと、存在の謎が喚起されるという体験である。神父の行なう聖書や公教要理の授業は、彼が礼拝の執行者として遂行する、感覚的世界と超感覚的世界を仲介する行為に比べればはるかに感銘の薄いものであった。私にとって礼拝は最初から、単なる形式ではなく、深淵な体験であった。我家ではこうした事柄に対してまったく無関心であっただけに、この体験は私にいっそう強い印象を与えた。私が礼拝の体験を通して馴染んだ生活が、私の家庭環境によって消し去られることはなかった。私は家庭環境とは関わりなく生きていた。私はこの環境を確かに眺めてはいたが、しかし、私の思考や感情は、常にあのもう一つの世界と共にあった。しかし私は決して夢想家だったわけではなく、あらゆる実際的な活動にも、ごく自然に適応していた。”(ルドルフ・シュタイナー『シュタイナー自伝 わが人生の歩み』Ⅰ 伊藤勉 + 中村康二訳 人智学出版社 p. 28,29)

 

聖なるものだけが、記憶となる。

俗なるものは、記憶とならない。

 

出来事は、聖なるものであり、それは記憶となる。

なぜなら、出来事には必ず自我が関与しているからである。

出来事は、複数の自我が霊的な関係性において結びつくことによって生起する。

そのような関係性において、複数の自我の成す純粋思考が交感する。

だから、出来事と純粋思考とは質的に等価である。

純粋思考は自我の現れであり、自我はキリストに由来するから、純粋思考はキリストから来るということができる。

 

デカルトが、「我思う、故に我あり」と言ったように、自我すなわち人間の存在自体が、すでに肯われて(うべなわれて)いるのである。

つまり、それは聖なるものである。

これは、ひとつの直観(直感)/Intuition である。

この直観(直感)/Inntuition においては、思考と感情と意志が一つになっている。

この純粋思考、この肯定的感情、そしてこの聖なる根源的衝動の融合。

 

これこそ、究極の癒やし/revelation 。