大いなる秘蹟としての出来事 | 大分アントロポゾフィー研究会

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魂の内で止むを得ず避けがたく起こって来る自己疎外が進むと、死に至る病である自己否定に陥る危険性がある。

この地上の世界において、誰もがその魂の内に自己疎外の文脈イメージを持つことから、その内なる自己疎外の文脈イメージが、外へと向けられ、いわば投影され、他者疎外の関係性が生まれることは避けようがない。

自己疎外、自己否定、他者疎外、他者否定というネガティブなループが形成され、これはいずれにしても死への道行(みちゆき)である。

 

だから、いずれにしても、アーリマン/ルシファー由来のミームから、思考停止の怠惰から、そのような他者依存の体たらく(ていたらく)から脱しなければならないのである。

 

それでは、最初に、ルドルフ・シュタイナー『神秘学概論』より、

 

”神秘学への道は、各人が自分に適した時点で見出すことができる。開示されたものから隠されたものの存在が認識されるか、あるいは推測、予感される時点、また認識力は進化可能であるという意識から、隠されたものが明らかになりうるという感情へと駆られる時点で、神秘学への道が見出されるのである。この魂の体験をとおして神秘学へと導かれた人間には、認識衝動の問いの答えだけではなく、人生を阻害し、虚弱にするものすべてを克服する展望も開ける。超感覚的なものから目を背けたり、否定したりするなら、それは人生の衰弱、魂の死を意味する。隠されたものが明らかになるという希望を失うなら、ある前提の下に、絶望へと導かれる。この死と絶望は、さまざまな形を取って、神秘学的な努力の内的、魂的な敵になる。人間の内的な力が消失すると、この死と絶望が現われる。生命の力を所有するには、生命のあらゆる力が外から供給されねばならない。そうして、感覚に接近する事物、存在、経過を人間は知覚し、悟性によってそれらを分析する。それらは喜びと苦しみを与え、人間に可能な行為へと駆り立てる。人間はしばらくのあいだ、そのように駆り立てられることができる。しかし、人間はいつか、内的に枯死する時点にいたる。そのようにして世界から引き出されるものは尽きるからである。これは、個人的な経験に由来する主張ではなく、すべての人間生活のとらわれのない考察から明らかになることである。この枯渇から人間を守るのが、事物の深みにやすらう隠れたものなのである。つねに新しい生命力を汲み出すために深みに下る力が人間のなかで消滅すると、外的な事物もついにはもはや生命を促進しなくなることが判明する。

これは、個々人や個人的な幸福や苦痛にのみ関係することではない。まさに真の神秘学的な考察をとおして、高次の観点から、個々人の幸福と苦痛は全宇宙の平安と災いに密接に関連していることが明らかになる。ある道の途上で、自分の力を正しい方法で発展させなければ、全世界とその中の存在に害をもたらすという洞察にいたる。超感覚的なものとの関連を失うことによって、人間はみずからの生命を荒廃させ、自分の内面でなにかを破壊する。そのなにかが死滅することは、人間を絶望に導きうるだけではなく、人間は自分の弱点をとおして全世界の進歩を妨害する。

人間は思いちがいをすることがありうる。隠されたものは存在せず、感覚と悟性に接近するもののなかに、存在するものすべてがすでに含まれているという信仰に耽る(ふける)ことがある。このような思いちがいをするのは意識の表面であって、意識の深みはこのような思いちがいをしない。感情と願望は、くりかえし、なんらかのしかたで、隠されたものを求める。隠されたものが奪い去られると、感情と願望は人間を疑念や人生の不確かさ、さらには絶望へと駆り立てる。隠されたものを明らかにする認識は、あらゆる希望喪失、人生のあらゆる不確かさ、あらゆる絶望、つまり、人生を虚弱にし、世界全体における人生に必要な務めを不能にするものすべてを克服するのに適している。

知識欲の満足だけでなく、人生に強さと確かさを与えるのが、精神科学的な認識の美しい果実である。そのような認識が労働への力と、人生のための確信を汲み出す泉は無尽蔵である。一度ほんとうにこの泉に到達したものは、そこに戻るたびに力づけられて、ふたたび人生に向かっていく。

・・・神秘学的な努力は、世情に疎い人間を作ったり、夢想家を作ったりはしない。人間の精神的-心魂的な部分が由来する生命の源泉から人間を力づけるのである。”(ルドルフ・シュタイナー『神秘学概論』西川隆範訳 イザラ書房 p. 48~51)

 

”・・・超感覚的な世界内容について知られうることが、筆者(シュタイナー自身)のなかにいきいきとした魂の内容として生きている。この魂の内容のなかに生きるなら、自分の魂のなかに入っていくことによって、超感覚的な事実へと導いていく衝動が点火される。感覚的な事実の報告を読むのとは異なった方法で、精神科学的認識の叙述を人は体験する。感覚界の報告を読むときは、感覚界について読む。超感覚的な事実についての報告を読むときは、霊的存在の流れのなかに入っていくのである。結果を受け入れるとき、同時に、そこにいたるみずからの内面の道も受け入れるのである。ここでいわれていることに、読者はしばしばまったく注意しない。人は霊的世界への参入をあまりにも感覚的体験に似たものと思い描き、霊的世界について読むときに体験するものが、あまりにも思考的なものだと思う。しかし、真に思考的に受け入れるとき、人はすでに霊的世界のなかに立っている。たんに思考の報告として受け取ったと思うものを、気づかぬうちに体験したということを明らかにしさえすればよいのである。”(同上 p. 52,53)

 

人間は、その本来の故郷である霊界/精神界から旅立ち、地上の世界に至る。だから、人間は霊と肉との間で、いわば引き裂かれたような状態にある。根源的な自己疎外は、ここから始まる。

だが、実のところ、根源的なように見えて、それほどには根源的ではなく、むしろ見かけ上の分裂だと看破する道がある。唯一の道が。

 

唯物論的な思考、いや、その実質は、ミームである。思考は思考でも、悟性的な思考であり、すでに本来の生きた思考の性質を失っている。硬直し、機械的で、影のようなあり方に変貌している。文脈イメージのアルゴリズムである。

この唯物論的な文脈イメージに囚われると、そこから抜け出すことはなかなか難しい。そして、魂は早晩、死の危険に瀕することになる。ニヒリズムに陥るのだ。

 

一方で、別の危険が口を開けて待ち受けている。本来の思考、思考そのものをまるごと放棄して、イメージの世界へと入ってゆく。確かに思考は消え去ったかに見えて、もともとが霊的存在である人間から、思考の要素を完全に消し去ることなどできないのだが。それでも、その人は思考的なるものに対するいわれのない憎悪と反感にあおられて、イメージと空想の世界、幻想の世界、迷信の世界、安手のセンチメンタリズムとセンセーショナリズムの世界へと入ってゆく。迷信と陰謀論のミームが支配する、いわば情念の世界である。

 

唯物論と情念主義の薄気味の悪いいくつもの混合物、ミームが、人間の魂を侵食して、社会癌を発症させる。

 

さて、唯一の道。霊と肉とを結びつけ、根本的な癒しをもたらす唯一の道、それは思考の道である。機械的な思考ではない、アーリマン的な思考ではない、アルゴリズムなどではない、ミームではない。

エーテル的思考、純粋思考、霊的思考である。

アンゲロイの成す思考。本来的な出来事である思考。

 

私たちの魂をいわば支配しているミームのアルゴリズムの相対性とその不毛さを観察し、体験すること、そしてミームから脱け出ようと試みること、これがこの地上生における人間の大きな課題である。

ミームの空間を抜け出したその魂の空(くう)のただ中に、思考体としての霊が現れる。

いつも見ていた外の景色が、いつもとは違って輝く。おもむろに野鳥が飛び、不思議な甲虫が羽ばたいて近づいてくる。頭上の青空を白い雲塊が流れてゆく。

いつもの場所の違う顔。

でも、彼らが突然現れたのではないことを、私は知っている。

 

それは、記憶の想起。出来事が記憶され、いわばそれが未来からのように想起される。

未来の記憶を想起することは、思考の役割だ。

・・・未来? いや、それは霊たちの国だ。時間のない場所。場所のない場所・・・いやいや、地上の言葉が意味を失う。

 

記憶とは、生きた思考。思考とは、生きた記憶であり、出来事。いずれも思考体として、エーテルのアウラをまとう。

出来事の中で、私は霊的な他者と出会う。霊的な他者との関係性の生起が、出来事の出来事たる所以(ゆえん)だ。

そうだ、すべてはあらかじめ準備されていた。ただし、そのような準備について、あらかじめ知る者はない。なぜなら、準備されていたとはいえ、その出来事が起こるのは初めてのことで、しかも繰り返しはないのだから。

これこそが、大いなる秘蹟である。

 

エーテル体 ~ 思考 ~ 記憶

生命 ~ クンダリニー/プラーナ

生命霊/ブッディ

生命霊としてのアンゲロイ、生命霊としてのキリスト

思考 ~ 記憶 ~ 出来事

 

生きた思考としてのロゴス、ロゴスの霊的生命を賦与された魂/アニマ

ロゴスの霊的生命を賦与され、聖別された魂/アニマは、アーリマン/ルシファー由来のミームの縛りを脱するための力を与えられる。

ロゴスとは純粋思考、純粋思考が成されることにより、魂は力と命を得て、「霊的存在の流れのなかに入っていく」。「人生を阻害し、虚弱にするものすべてを克服する展望も開ける」。魂が獲得する力と命の出どころは、クンダリニー/プラーナであり、霊たちの国に由来する。そのような力と命を生命霊と呼びたい。それはキリストとして力強く、アンゲロイとしてあたたかい。

シュタイナーは、「神秘学的な努力は、世情に疎い人間を作ったり、夢想家を作ったりはしない。人間の精神的-心魂的な部分が由来する生命の源泉から人間を力づけるのである。」と述べている。

「人間の精神的-心魂的な部分が由来する生命の源泉」という言葉は、瞑想に適したマントラということができる。なぜなら、霊たちの国は生命の泉であり、人間の霊と魂はそこから来た、という意味だから。

人間の霊と魂と同根の芸術は、だから霊たちの国/生命の泉に端を発する。それゆえ芸術は、人間の魂をあたため、生命を賦活し、そして人間を強くすることができる。

 

芸術をアーリマン/ルシファー由来のミームと混同してはならない。

芸術は魂をあたため、生命を賦活し、その人間を強くするが、ミームは人間から思考する力を奪い、他者依存にし、魔界へと誘う。

芸術がキリスト衝動に端を発するのに対し、ミームはアーリマン/ルシファー衝動に由来する。

ミームは、きわめてあからさまに月並みの受け狙い、驚くほど安手のセンチメンタリズム/センセーショナリズムが特徴である。カルト的な宗教グループが奉じる迷信やフェイクニュースにも同じような特徴を見て取ることができる。今や世界を席巻する種々の陰謀論も同じような手練手管によって人心を煽る(あおる)。

アーリマン由来の唯物論によって、その融通の利かない機械的な文脈イメージのアルゴリズムによって、からからに乾ききった砂漠状態の魂に、それらの扇情的なミームが浸み込み、浸潤し、毒薬のように蔓延して、息も絶え絶えとなった魂は、回復する術を知らず、痙攣(けいれん)する。もちろん、これはオーガズムではない。パニック発作のようなものだ。過呼吸状態かもしれない。それによって人間が満たされたり、癒されたりするようなことなどないのだが、多くの人間が同一のミームを受け入れ、それに沿って行動するようになれば、生活するようになれば、それはそれでそのアーリマン/ルシファー的な共同性が、一種の安定と安心を生み出すだろう。ただし、そのとき人びとは群衆となる。

 

さて、私たちは、この地上に受肉して、鉱物界、植物界、動物界、人間界を、そしてさらには神々の世界を、自らの内外(うちそと)に見やる。そして、これらの世界が単に物質の世界ではないことを観察し、知るはずである。

まさしく、霊と生命とに満ちあふれた豊穣の世界である。

ところが、アーリマン/ルシファー由来のミームに魂が寄生されると、その景色が見えなくなる。すべては、唯物論と迷信に覆い隠される。

 

”・・・「私たちは精神科学について何も知りたくない」と言う不精な人たちは皆、アーリマンの魔力に負けてしまうのです。と言うのも、アーリマンは壮大な方法で、魔術によって非常に多くの人間を霊視者にすることができるからです。アーリマンは個々の人間を恐ろしいほど霊視的にするでしょう。しかしどのように霊視的になるかは、個々の人間でまったく異なっています。一人の人間が見るものは二番目の人間には、そして三番目の人間には見えないのです。人々は混乱し、霊視的な知恵の基礎を受け取ったにもかかわらず、互いに争ったりけんかしたりするようになります。なぜならさまざまな人間が見るものは、それぞれ極めて異なったものになるからです。しかし最終的には、人々は自分たちの霊視能力に非常に満足するようになるでしょう。というのも、彼らはそれぞれ霊界を覗き見ることができるようになるからです。しかしその結果、地球の文化はすべてアーリマンの手に落ちることになるでしょう。自分の力で身につけなかったものをアーリマンから受け取ることで、人類はアーリマンの手に落ちるでしょう。「いまの状態に留まりなさい。君たちが望むなら、アーリマンは君たちを全員、霊視的にするだろう。そして君たちはそれを望むだろう。なぜなら、アーリマンは大きな力を持つようになるのだから」というのは、人間に与えうる最も悪い助言になるでしょう。その結果、地球上にアーリマンの王国が建設され、地球全体がアーリマン化されるでしょう。そして、それまで人間の文化によって築き上げられてきたものは、いわば崩壊していくことになるでしょう。現代の人間が無意識的な傾向の中で欲している善くないことが、すべて実現されることになるでしょう。”(ルドルフ・シュタイナー『悪の秘儀 アーリマンとルシファー』松浦賢訳 イザラ書房 p. 202,203)

 

「自分の力で身につけなかったものをアーリマンから受け取ることで、人類はアーリマンの手に落ちるでしょう。」と、極めて率直に、シュタイナーは語っている。

唯物論的な自然科学と、そこから生み出されるまさに魔術のような科学技術や機械・道具類。すべてアーリマンに由来するミームの産物である。現代においてはほとんどすべてがネットで手に入る。すべて他者が生み出したもの。他の誰かが言ったこと。霊界/精神界について言及したテキストを入手する。ネットで読んだり、視聴したりする。それらすべて、あくまでも自分ではない他の何者かが提供してくれる。何かの受け売りかもしれないし、フェイクニュースかもしれない。いずれにしても、あなたが自分の力で身につけたものでないことは確かだ。あなたは自ら思考することを放棄した。ミームがあなたの魂の内に入り込んだのだ。

あるミームがあなたの魂を支配するようになると、異なるミームに支配されている他者が見ているものが見えなくなる。あなたに見えているものが、彼には見えない。