最初に、ルドルフ・シュタイナー『神秘学概論』より、
”わたしの霊的世界の観照に対して、それはかつて霊的世界について語られていたものを形を変えて再現したものであろう、とくりかえし異議を唱えられた。わたしはさまざまなものを読み、それを意識下に受け入れ、それが自分の観照から発したものだと信じて叙述したのだ、といわれた。グノーシスの教えや、東洋の叡智の書などから、わたしは本書の内容を得たにちがいないというのである。
そのような主張をすることによって、思考は表面的なものにとどまる。
完全に意識的なわたしの霊的認識は、わたし自身の観照の成果である。個々の叙述についても、概観に関しても、自分の観照的な歩みが完全に慎重な意識を伴っているかどうかを、つねに厳密に点検した。数学者は無意識的なものや自己暗示なしに、思考から思考と進む。同様に、霊的観照は、明瞭な思考を伴った意識が観照する霊的内容以外のものが魂のなかに入ってくることなしに、客観的なイマジネーションから客観的なイマジネーションへと歩まねばならない、とわたしは思う。
イマジネーションがたんなる主観的なイメージではなく、客観的な霊内容のイメージの再現であることを、人は健全な内的体験をとおして知るにいたる。感覚的な観照の領域において健全な組織によって幻想と客観的な知覚が正しく区別されるように、精神的-心魂的な方法においてもこのような識別が可能になる。
そのように、わたしの観照の諸成果が現れた。それらは、最初、名称なしに生きる「観照」であった。
それらを伝達するには名称が必要であった。観照ののちに、私はまだ名称をもたないものを言葉で表現するために、古い霊的な書物に見られる表現を探し求めた。それらの名称を、わたしは自由に用いた。だから、わたしの使用している言葉のなかで、かつてその言葉が有していた意味と一致するのは、ほとんどひとつもない。
わたしはつねに、自分の観照のなかに内容が現れたあとではじめて、その内容を表現する方法を探求したのである。
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本書に再現したイマジネーションがわたしの魂のなかにひとつの全体像として合流したとき以来、わたしは中断なく人間、人類の歴史的生成、宇宙などについての探究的観照をつづけてきた。個々のことがらについては、いつも新しい成果にいたった。しかし『神秘学概論』のなかに15年前概要として記したものは、揺るがざるものであった。それ以来、わたしが語りえたことは、本書と照らし合わせれば、当時叙述したスケッチをさらに詳述したものであることがわかるだろう。
1925年1月10日、ゲーテアヌムにて ルドルフ・シュタイナー”(ルドルフ・シュタイナー『神秘学概論』西川隆範訳 イザラ書房 p. 34~36)
「霊的観照」を経て、「客観的なイマジネーション」が、「客観的な霊内容のイメージの再現」として現れる。しかし、それらの「観照の諸成果」は、名称なしに生きていたので、それらを他者に伝えるために、シュタイナーは自ら、それらを名づけなければならなかった。
「それらを伝達するには名称が必要であった。観照ののちに、私はまだ名称をもたないものを言葉で表現するために、古い霊的な書物に見られる表現を探し求めた。それらの名称を、わたしは自由に用いた。だから、わたしの使用している言葉のなかで、かつてその言葉が有していた意味と一致するのは、ほとんどひとつもない。わたしはつねに、自分の観照のなかに内容が現れたあとではじめて、その内容を表現する方法を探求したのである。」と、彼は極めて率直に述べている。
シュタイナーのこのような姿勢をこそ見習うべきであろう。
そして、私は私の純粋思考を成す。その純粋思考が、シュタイナーの成した純粋思考と同じものであるか否か、それはおそらくすぐには明らかにはならないだろう。しかし、明らかになる時が来ることを期待してよい。
「イマジネーションがたんなる主観的なイメージではなく、客観的な霊内容のイメージの再現であることを、人は健全な内的体験をとおして知るにいたる。感覚的な観照の領域において健全な組織によって幻想と客観的な知覚が正しく区別されるように、精神的-心魂的な方法においてもこのような識別が可能になる。」と、シュタイナーが語っている。
私自身、そのような客観的な霊認識としての観照のあり方について、追求し続けてきたつもりである。そして、ある程度の確信/自信/達成感めいたものは感じているのである。
いずれにしても、自ら純粋思考を成し、自らの方法を見出し、安んじて観照に至る。これが肝要である。
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イマジネーションにおいて、個々の霊的イメージが現れる。感情、直観、霊視。
インスピレーションにおいて、個々の霊的イメージがつながり合い、霊的な全体像が明らかになる。思考、純粋思考、霊聴。
イントゥイションにおいて、霊的存在との「わたし/Ich」-「あなた/Du」の関係が確立される。意志、霊的合一、霊的世界に生活する。
以上、霊的観照の三様態/三相(三つの様態/相)。古代における鳥瞰的意識/視野の更新として。
現代人が獲得した対象意識は、一度に一つの対象にしか目を向けることができない。その対象の隣に何か別の対象があっても、同時に意識が向けられることはない。Aの次にB、それからBの次にC・・・となる。
このような対象意識を基盤として、通常の悟性的思考が営まれる。対象意識と悟性的思考とが、科学の基盤である。
だから、通常の科学的な思考は、全体を把握することが苦手である。ほとんど不可能であると言ってよい。
個々の対象について、微に入り細にわたって、精密さを極めていく方向に向かい、個/部分と全体の関連は置き忘れられる。
一つの対象の次に別の対象へ、という一種の線状の動きがあるだけなのである。思考はいつまでもどこまでも二者択一の二進法で進む。
全体を把握できない不便、鳥瞰的視野を獲得できない不便さを解消するための方便として、数学的公式や自然法則の類が発明される。その発明に際しては、実験や証明/検証という手法が利用される。
しかし、もともと、そのような公式や法則といった事柄は、霊的な事実とは何の関係もない。それらは、アーリマン/ルシファーに由来する文脈イメージのアルゴリズムでしかない。それらは、ミームである。
鳥瞰的視野のみが可能にする世界/宇宙のマップを失った現代人の魂(悟性魂/心情魂)が、その代わりに手にしたものが、アーリマン/ルシファー由来のミームである。
それは、アーリマンから来る唯物論と二進法の機械性、ルシファーから来る腐臭を発するセンチメンタリズムによって特徴づけられる。
アーリマン由来の唯物論と二進法の思考法では、私たち人間が生きていることの神秘に関わることはできない。この思考は、生命的なものではなく、死に向かうのである。
”(主なる神は)更に人に言われた、「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」。”(「創世記」第3章)
ルシファー由来のセンチメンタリズムは常に強烈なエゴイズムを中心に渦を巻いている。他者を軽視する運動であり、ここから聖なるもの/無垢なるものは現れない。
”そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」。すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。また、だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。・・・」(「マタイによる福音書」第18章)”