ミームから脱出することを、脱構築/déconstruction と呼ぼう。
生きる指針を自ら思考することによって獲得するのではなく、無自覚にミームに依存する。
ミームを構成するいくつもの文脈イメージとそのアルゴリズムのレールに乗ってしまえば、あとは自動的に先に進む。そして、その滑らかな自動性ゆえに、人はそれが確実で安全な行き方だと錯覚する。彼は自分で考えることをせず、ミームがその代りをする。
しかし、考えること、思考することこそ、人間の証なのであり、実際、自分で考えることをしなくなると、人はいわば生活する力を失うのである。
生活にまつわる思考の本質は、純粋思考であり、純粋思考は生命(力)と直結している。
楽をしようとして、近道だからと、人は見栄えの良いミームに飛びつくが、楽をする必要はないし、近道を探す必要もない。
自らの生活を、純粋思考の視点から、あるいは(純粋)思考を日々の生活の視点から、見直すことが大切である。
通常、日々の生活は、ミームの視点から構築されている。ほとんど一から十まで。
だから、人は否応なくミームに絡めとられ、そしてそのことを当然のことだと受け止めている。いろいろな不都合が起こりはするが、それもミームの空間の中では織り込み済みとみなされる。
このミーム空間を意識と呼ぶことに違和感はないどころか、ミーム(空間)を意識と同定し、魂(の空間)として特徴づけることは、ミームを脱構築する上で効果的である。
空間が想定できない文脈では、意識は想像しにくい。意識は空間のようなものと感じられる。
この空間のようなもの、意識の担い手が、アストラル体である。
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人間の思考の営みは、人間と宇宙の謎を解明していない。
現代の科学は、その解明の本来の道筋から外れてしまった。
受肉と誕生、肉体の生長、セックス、他者、死、etc. ・・・すべてが謎のままとどまっている。
生は謎である。謎である生を、思考の営みから排除した科学が、その謎である生の事柄/出来事を解明することはない。
そのような科学の思考は、生命の事柄/出来事を、奇妙な具合に迂回し、迂回し続け、いつまで経っても答えに辿り着かない。アーリマン/ルシファーの迷宮にはまり込む。
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ミーム空間が通常の意識の空間である。
ミームの何らかの文脈イメージに生命にまつわる事柄が含まれていても、それは科学による何らの支持はなく、またそのミームと共に生きる誰かの主体的な思考によっても支持されない。なぜなら、科学は生命にまつわる事柄について説明することを避けており、その誰かさんもなーんにも考えていないからである。
いずれにしても、生命に直結した純粋思考が成されなければ、人はミーム空間の外には出られない。