感覚魂・・・スクリーンとしての意識、素朴実在論
悟性魂/心情魂・・・フィルターとしてのミーム、文脈イメージ/アルゴリズム
意識魂・・・純粋思考、霊視、本来の実在論
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悟性魂/心情魂の領域において、ミームの世界は、感覚魂の直接性から離れて、幻想的/空想的な文脈イメージのアルゴリズムに支配されている。諸々のミーム間のつながりや結びつきは、常に恣意的であり、ときに近づき、ときに離れる。あるときには、結びつくかに見え、しかしいつしか対立する。絶え間ない離合集散の繰り返し。
ミームの巣窟としての悟性魂/心情魂にとどまるかぎり、人はアーリマン/ルシファーの誘惑に打ち克つ術を持つことはできない。アーリマン/ルシファーに、いわば憑依(ひょうい)されるのである。
ミーム/文脈イメージの恣意性と相対性に気づけば、人はその魔術から逃れるきっかけを得る。
その気づきは、ある日/ある時、突然訪れる。そこには、何らの恣意性も作為もない。それは、いわば奇跡であり、神の祝福としての出来事である。
ミームのアルゴリズムを離れたところにしか、出来事は起こらない。
人間の恣意や作為、そのような人為性とは無関係に、出来事は起こる。起こるべくして起こる。人の生き死にが、人のままならないのと似て。
それはまさしくカルマの要件なのである。
そのようなカルマ的な事柄に対して、人は倫理的にのみ備えることができる。
そのような倫理的な備えを、何らかのミームのアルゴリズムに則って成すことができると考えるなら、そのような人は、だれかに、何者かに、「出直してこい」と一喝(いっかつ)されることになっている。
だれに? 何者に? それは、ちょっと自分で考えてみてほしい。
けっこう多くの人が誤解しているように思われるのだが、カルマ的な事柄はけっしてゲームの類ではありえないのである。ゲームというものがあまり好きではない私が言うからというわけでは決してなく、それは実に真剣勝負のようなもの。
真剣勝負のようなものとして、出来事は起こる。「おいおい、そんなにむきになるなよ」と言われようが、言われまいが、それは常に生と死の淵で・・・
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動物たちの魂の状態を想像してみると、感覚魂がどのようなものかイメージしやすいかもしれない。
動物たちには、悟性魂/心情魂というものはなく、外界/森羅万象は直接的に魂のスクリーンに映し出される。
それらの直接的な感覚イメージを、動物たちは造物主によって与えられた本能という一種の鳥瞰的視野の下にとらえるのである。
本能は神々によって統括されており、動物たちはいわば神々の道具としてこの世界を生きる。
間違いはないが、同時に情け容赦のない自然の論理に貫かれている。
人間は、その進化の過程で、動物を自らの外に放出した。
神々の道具/機械であることを拒絶した、とも言える。
つまり、全体の一部として、ただ本能の命じるままに振舞うことをやめたのである。
動物は、本能に従うことにより、他の個体といかに関係するかという、いわゆる他者の問題を自らの問題とはせずにいられる。
動物であることをやめた人間は、その時点で、他者問題に直面する。すぐれて倫理的な問題である。しかし、他者の姿は見えそうで見えず、それでも自分以外の何ものかが、この世界に存在するという確信めいたものは残り続ける。
「あなたはどこにいるのか。あなたはだれなのか。」・・・この問いが止むことはない。
つまり、人は神に背いた。全体から離れた。道具や機械であることを拒否した。
「創世記」は事の成り行きをきわめて印象深く描いている。
”・・・へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それ(善悪を知る木)を食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。”(「創世記」第3章)
人はへび/ルシファーの誘惑のまま、神の言いつけを破り、神に逆らって、善悪を知る木から取って食べる。そして、人の目は開ける。人は人と成る。神の言いなりにはならない存在と成る。人は悟性魂/心情魂を獲得したのである。
善悪を知る木から取って食べることにより、単に感覚魂が見るのとは違った世界を見るようになる。「目は開ける」のである。
そして同時に、人は地上の人と成る。
いずれにしても、この地上の通常の生活において、裸のまま街に出たり、会社に行ったり、その他諸々の公共の場所での裸はとりあえず普通ではない。
だから、「ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。」というのは、ここに一つの文化のようなもの、一種の倫理的なミームが生まれていることを見て取ることができる。
”更に人に言われた、「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物をとる。地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」。”(「創世記」第3章)
本来の人の故郷は、霊界/精神界であるはずなのに、ここで神は人に向かって、「あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る。」と、あたかも人の故郷は土/物質であるかのように語っている。
「地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物をとる。」と神が語るように、人が善悪を知る木から取って食べ、悟性魂/心情魂を獲得し、自らの内にミームを巣食わせたことによって、森羅万象は感覚魂に直接的に姿を現わしていたその在り様から、いわば霊的生命の輝きを剥奪(はくだつ)された。呪いである。祝福の反対である。
呪われたものは、その呪いを解かれる。聖別され、祝福される。
”主なる神は言われた、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかもしれない」。そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕せられた。神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて命の木の道を守らせられた。”(「創世記」第3章)
「命の木」とは、生命霊/ブッディであり、ヒンドゥーに由来する語彙では、プラーナ/クンダリニーに相当する。
いずれにしても、神に背いて、善悪を知る木から取って食べることにより、悟性魂/心情魂を獲得し、自らの魂にミームを巣食わせ、地上の人と成って、霊界/精神界(エデンの園)を追われることになった人間が、やがては聖別され、祝福されるという道行を・・・その道行を考えるとき、「命の木」が大きな意味を持ってくる。