”・・・なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁(はり)を認めないのか。自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からもちりを取りのけることができるだろう。”(「マタイによる福音書」第7章)
キリスト・イエスの言葉である。
ここで「梁(はり)」と呼ばれているものこそ、ミームであると言ってよい。
アストラル空間から、人間のアストラル体に突き入ってきた。そして、人間の魂を乗っ取り、彼の自我から思考する力を奪い、その意識を歪めて、事の真相を隠す。
「ちり」とは、ミームによって歪められた意識のスクリーンに映し出される諸々の歪な(いびつな)イメージである。
つまり、兄弟の誰もが、ミームに囚われており、いわば盲目になっているのである。
そのような状態に陥った人間に対し、キリスト・イエスは、「まず自分の目から梁を取りのけるがよい」と語る。
これ以上はない簡明さで、ミームの呪縛を逃れよ、と諭しているのである。
ピエテル・モルティエ「ちりと梁」1700年ころ。
しかし、キリスト・イエスは、すぐに続けて、次のように語る。
”聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。おそらく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。”(「マタイによる福音書」第7章)
ここでは、聖なるものと俗物(地上的なるもの)が対比され、犬や豚でイメージ化された俗物が、聖なるものを理解することができず、それを受け入れず、敵対することが示されている。
たとえマナス(真言)を語っても、地上的なものだけを求めて汲々としている人びとには通じない。
それ故、キリスト・イエスは、群衆には譬(たとえ)で語る。
”それから、弟子たちがイエスに近寄ってきて言った、「なぜ、彼らに譬でお話しになるのですか」。そこでイエスは答えて言われた、「あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられであろう。だから、彼らには譬で語るのである。それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである。こうしてイザヤの言った預言が、彼らの上に成就したのである。
『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。
見るには見るが、決して認めない。
この民の心は鈍くなり、
その耳は聞こえにくく、
その目は閉じている。
それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、
悔い改めていやされることがないためである』。
しかし、あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわいである。あなたがたによく言っておく。多くの預言者や義人(ぎじん)は、あなたがたの見ていることを見ようと熱心に願ったが、見ることができず、またあなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである。・・・」”(「マタイによる福音書」第13章)
譬で語ることにより、キリスト・イエスは、群衆の魂に巣食ったミームを脱構築しようとしているのである。
ミームのアルゴリズムと文脈イメージは、正攻法では解きほぐす/突き崩すことはできない。
譬とはイメージである。単純なイメージではなく、それは文脈イメージとして構造化されている。有機的に構築され、構造化された文脈イメージは、生きたイメージとして力をもつ。そのような有機的に構造化された文脈イメージは、人間の成す意志的な思考と結びつくと、魂の中で変容し始め、メタモルフォーゼを繰り返しながら、まさに自律的に生命的に増殖する。ベートーヴェンの交響曲が、豊穣かつ巧妙に、そして自在に展開しながら鳴り響くさまを想像すると、近いイメージが得られよう。
つまり、キリスト・イエスが提示する譬の生命力をもつ文脈イメージが、群衆の魂に巣食ったミームの文脈イメージと対比されることで、脱構築が起こる可能性が生まれるのである。
アストラル界からやって来て、群衆の魂の中に入り込み、そこに居座り、唯一のものとして絶対化されるに至ったミームは、キリスト・イエスの語る譬と対置されることにより、相対化される危機に直面する。