ミームはアストラル空間から来る(1) | 大分アントロポゾフィー研究会

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魂的外界/アストラル界に、ミームは漂っており、そこから人間の魂に憑依(ひょうい)する。

魂的外界/アストラル空間は、鉱物界の縛りから離れているので、地上の世界では起こるはずがないと、私たちがたかをくくって済ましていることも起こり得る。魔術/イリュージョンのように、それは起こる。

私たちの意識のスクリーン上に、そのような魔術/イリュージョンが映る。

 

さて、意識のスクリーン上で展開されるそれらの映像のすべてを、ミーム由来の幻像だと決めつけていいのだろうか。

意識の側からすれば、幻像だとも幻像ではないとも決めかねる。

なぜなら意識が何らかの映像をそのスクリーン上に映し出したときにはすでに、意識はその映像と同化しているので、映像を外化/客観化できない状態にあるからである。

何かを意識したときには、すでに、その何かが本当にあるかないかは問題にはならない。意識したのだから、その何かはある、そして意識されないそれ以外のものはない、ということになる。この判断を後から覆すことは、ほぼ不可能である。

意識を二つまたはそれ以上に分割することはできないから、意識を外から見ることはできない。いわば、果てしない主観世界だけが、どこまでも続いている。

 

だから、人間の魂は、意識のこのような原理的な構造ゆえに、認識の危機の前に立たされる。

 

「私の目の前に広がっているこの景色は、現実のものなのか」

「私の目の前にいるこの人は、本当は何者なのか」

 etc. ・・・

 

一度疑い始めると、その疑いが晴れる可能性は、もうない。人は、そのような認識の迷宮の中で、堂々巡りを続けるのである。

自然科学や社会科学的な説明で満足できるなら、それはある意味においては幸せかもしれないが、おそらくまともな自然科学者や社会科学者ならば、自分たちが本当は謎を解明していないことを何となく感じている。

そして、よく考えれば誰でも、そのような謎は、このままでは永久に解き明かされないだろうと感じざるを得ないはずである。

というのは、現代のアカデミックな諸科学が、唯物論のミームに救いようもなく囚われており、人間の生活上の諸問題に対処する力をもたないからである。それどころか、現代の科学が提示する無数の説明や処方に従うことで、私たちの健康は害され、社会問題は一層複雑化し、世界はカオスと化す。

そして、あろうことか私たちは、そのような黙示録的な状況にさえ慣れてしまい、実際に何が起こっているのか知ろうともせず、「それ/Es」と敵対し続けているのである。もちろん、この戦争に勝利する者は、私たちではない。「それ/Es」(他者)でもない。この戦争に勝者はいないのである。

この戦争が最後まで行けば、貫徹されれば、その時には、もう誰もいなくなる。そうした結末が待っている。

この戦争のことを、聖書に従って、「万人の万人に対する戦い」と名付けるのは、理に適って(かなって)いる。

 

唯物論ミームもアストラル空間から人間の魂に入ってきた。

このミームに限らず、魂の中に入ってきたミームは、人間の魂を乗っ取って、思考体としての自我からその思考能力を借用し(奪い)、ミーム自身のアルゴリズムに従わせる。

だから、誰かが一度唯物論ミームに憑依されると、その人は唯物論の文脈でしかものごとを考えられなくなる。実際に考えている(もはや思考とは言えない別物だが)のは、ミームであり、その人ではない。

いや、ミームのアルゴリズムをなぞっているにすぎないのに、人は自分が考えていると思い込む。まるで、自動人形とか機械にでもなったかのように、人は動き始める。

 

個々のミームの起源を追求することにはほとんど意味がない。

なぜならば、それらはアストラル界にいつの間にか漂っており、誰かの魂の中に入ってきても、その人はそのミームがいつ入ってきたのか無自覚で、また無自覚であるがゆえに、自分がそのミームによって、いわば操られていることにも無自覚だから。

たとえ個別のミームの起源を突き止めたように感じられたとしても、それは錯覚で、ミームの支配を補強することにしかならない。なぜなら、人間の魂にそのような錯覚を惹起(じゃっき)できるアルゴリズムの経路が作られた(確認された)ということになるわけだから。

迷宮はより複雑なものになり、そこから脱け出るのはますます難しくなる。

 

言語の起源がわからないのと同じく、ミームの起源はわからない。

言語が人間の作ったものではないのと同じく、ミームも人間の作ったものではない。