ミームの風景 ~ 散らかった部屋と終わりのない競争 | 大分アントロポゾフィー研究会

大分アントロポゾフィー研究会

ブログの説明を入力します。

たくさんの物が整理されないまま部屋を埋めている。ほとんどの物を、私はいつ手に入れたのか、どんなふうにして手に入れたのか、なぜそれらの物を買い求めたのか、etc. それらの物に対する私の主体的関わりを、私はもはや思い出せない。

だから、そうしたある意味、名前のない物たちに囲まれて、私は日々暮らしているのだ。そして、それらいわばのっぺらぼうのなんだか無機質の物たちと、私はこれからの人生において、(再び)親密なつながりをもつようになることは、まずないだろう。

 

このちょっと近未来的な寒々とした生活空間のイメージこそが、悟性魂/心情魂のミームのあり様をあからさまに写し出している。

おそらく、そのようなもはや私が注意をはらわなくなってしまったよそよそしい物たちに囲まれ、私は(私たちは)知らず知らず、ある種の解離の状態に陥る。なんとなく「ここはどこ?」「いまはいつ?」という気分にとらわれる。

 

ただし、私がこれまでの人生において、そうした物たちを集めるのには、それなりに長い時間がかかっており、それらの物たちの個数もかなりのものになっている。それらの一つひとつに継続的に注意を向け続けたり、ずっと記憶に留めて、ことあるごとにいちいち思い出すということ自体、不可能である。

そしてもちろん、それらに四六時中注目したり、思い出し続けたりする必要もない。

 

現代を生きる私たちの意識は、対象意識であり、基本的に一度に一つの対象しか視野に入らないようにできている。焦点化するのである。

しかし、この地上の生活を生きる上で、複数の物をひとまとめにして扱う必要が、必ず生じる。そうせずには、日々の生活は立ち行かない。

ひとまとめにするとは言っても、複数の物をランダムに選択し、脈絡もなくまとめるわけにはいかない。なぜならば、生活上の必要に沿った形で、複数の物をつなぎ合わせ、関連づけてまとめなければ、用を成さないからである。

このような生活上の必要に沿って、まとめられた複数の物のまとまり、そしてそれら相互のつながり方は、文脈イメージとして現出し、私たちの生活に資すると同時に私たちを制約し、縛るのである。

 

このようにして、ミームは私たちの魂に侵入し、私たちをいわば大地の子と成す。私たちは、同じ時代を生き、多くの人たちとともに共通の地上の家/故郷をもち、同じ国に生きる。そして、無数の物たちと共に、この地上で生活する。

私たちのこのような生活を可能にしているものこそ、ミームである。このようなミームのおかげで、私たちは、一人では絶対に成し得ないことを他者と共に成し、社会を形成する。そして、ちょっとどぎつい言い方をすれば、私たちは、社会の奴隷となる。

 

さて、この地上の世界に受肉し、ここを住みかとし、ここに生きるようになれば、私たちの魂には遠からずミームが入ってくる。現代の学校教育の基本は、悟性魂/心情魂の育成である。ある意味において、ある年齢に達するまでに、一定の質量のミームが、社会に成員の魂において共有されるようになることが、大きな社会の目標となる。家庭においても、学校においても、さらに社会の諸領域においても、このことが追及される。そして、実際、私たちは、ほとんど無自覚に、かつ極めて厳格に、それを成し続けているのである。

ミームのアルゴリズムに従って、まるで機械のように、私たちは生活している。

 

ところが、機械のように日々の生活を生きる私たちは、ほどなく、本来の生活、植物や動物たちが謳歌している生命の舞い/営みから切り離されていることを痛感するようになり、日々の暮らしに消耗し、やがて息も絶え絶えといった状態に陥るのである。

奇妙なことだが、これは、地上に受肉し、この地上の世界を生きるようになった私たちの、ある意味では、宿命なのである。誰もが、そのような生を生きる。

 

まず、人は受精によって、自らの体(たい)を形成し始める。この地上の世界に生きるために不可欠の体をもつようになる。これはそのまま、霊界から旅立つことを意味する。

そしてやがて、胎児は母体から離れる。ここに、一つの分離/分断が確認できる。生まれたばかりの赤子は、まだ自らを「わたし/Ich」とは名乗らず、母親を「あなた/Du」とは呼ばないが、この段階で既に、「わたし/Ich」と「あなた/Du」の原初的な分離/分断の構造が見出される。つまり、「わたし/Ich」が「あなた/Du」から疎外されるというプリミティヴで決定的な構図/構造が確認されるのである。この「わたし/Ich」-「あなた/Du」疎外は、純粋思考の深層にある。

ここで、確認しておいた方がよいのは、「わたし/Ich」が「あなた/Du」から疎外されるということは、同時に、「わたし/Ich」が「あなた/Du」を疎外することを意味し得るはずだ・・・。「わたし/Ich」は被害者であるばかりでなく、加害者でもある。これが、疎外の文脈の複雑さである、と言えば言える。・・・一体、主体は何者なのか?

 

いずれにしても、人間がこの地上の世界において、個として自立し、生きるために、この疎外の出来事がなくてはならない。

そして、人は疎外されたままでは、この地上の世界を生き抜くことはできない。

個として生きるためには、人は疎外という出来事を経なければならないが、疎外という出来事の渦中に、いつまでもい続けるわけにはいかない。

 

そもそも出来事いうものは、文脈イメージに過ぎないミームとは違って、宇宙の実相である。ミームは仮象だが、出来事は実相である。それは実際に起こっている何事(なにごと)かであり、ミームのような文脈イメージの繰り返し/コピーではない。出来事は、常に新しい。出来事は繰り返さない。歴史が繰り返すことはない。歴史は常に新たにつくられるのである。

ミームは過去の繰り返しであるのに対して、出来事は常に創成(そうせい)である。進化という言葉に意味があるとしたら、この意味をおいて外にはあり得ない。

 

ミームが過去の繰り返し/コピーであるならば、最初のミームを考えることができるのか。いちばん大本(おおもと)のミームがあったということなのか。

思うに、これは、考える必要のない問いだろう。

ミームは、いつの間にか、気づいたときには既に、そこにあるものだからである。つまり、それは個人としての人間、誰かの作った/始めたものではなく、それは人間の思考の産物ではなく、・・・人間にとって、それは、「それ/Es」以外の何ものでもない。

実に奇妙なことに、ミームは悟性魂/心情魂と同定できるかに思えるが、人間の魂にとって、それは他者である。つまり、ミームは悟性魂/心情魂そのものというよりも、人間の魂に外から入ってきた他者であり、あたかも寄生生物のように、人間の魂を乗っ取っているのである。そしてまた奇妙なことに、人間は、ミームを自らの魂の内に宿し、いわばミームに乗り移られたような状態で、日々生活し続ける。そのようにして人間は、自らの存在の核である自我/主体性を、ミームによって食い潰されてゆき、・・・硬化してゆき、生きる力を失ってゆき、生きる喜びを忘れ、他者に共感することもなくなり、・・・その人は、もはや思考せず、かと言って動物のような(神々から与えられた)本能もなく、まるで機械のように動く。

 

さて、私たちは、どんなミームが、そしていくつのミームが、この世界に見出されるか追いかけ、その地図を描くことができるだろうか。

そんなことは不可能だし、無意味でもある。そんな教科書のようなものを作るために労力を費やすことは、不毛である。

そもそもどんなミームも、気づいたときには、すでにそこにあった。奇妙な言い方だが、気づく前に気づくことはできない。しかし、私たちがその存在に気づいていなくても、私たちはいつの間にか、ミームのアルゴリズムに従って、行動している。まったく無自覚に。

この機械性と自動性とに、注意を向けることが大切である。そして、その都度、日々の生活場面において、いかなるミームが私たちの営みの基底に潜んでいるかに注視すればいい。

 

自分がいかなるミームに従っているか気づくのは容易ではない。

なぜなら私たちは、自分でも気づかないうちにいつの間にか、ミームに囚われているからである。

もちろん、「囚われている」という言い方は、いくぶん語弊がある。

なぜならば、この地上の生活を営む上で、ミームの恩恵を得ているのも確かではあるからだ。そして、ミームのせいで、私たちの目が曇らされているのも事実である。

この善悪両面を見なければならない。注視しなければならない。観察しなければならない。

問題は、どのように注視し、観察するかということである。

 

私たちの魂に深く浸透し、私たちが自らの生活をそのアルゴリズムに沿って営む強力なミームが、競争である。

競争ミームは、生活領域に幅広く浸透しており、私たちは日々の暮らしの中で、ほとんど否応なくこれに巻き込まれる。もちろん、競争ミームは私が作ったものではないし、他の誰かが作ったとも言えない。いつ私たちの暮らしの中にやって来たかもはっきりしない。

ここで大切なのは、ミームの作者やその起源を問うことではない。ミームというものの非人間的な他者性を確認することが肝要なのである。そして、ミームの本質が、アルゴリズム/文脈イメージに他ならないことをよく観察しなければならない。

 

さて、競争ミームである。学歴、職歴、職業的キャリアー、スポーツ、種々のコンクールの類、組織内のヒエラルキー、資産、お金、技術、etc.・・・それから賭け事、ルッキズム、多種多様の差別などにも似たものが、・・・競争においては、他者に勝つことが一番に追及される・・・

いろいろな生活領域で、私たちは、他者と競争している。いつの間にか、そうした諸々の競争に巻き込まれている。そうした競争が、つまり競争ミームが、私たちの生活の一部である、いやむしろ、生活を成り立たせている基底のようなものだから、私たちはこの地上の世界に生まれ落ちたその時から、そうしたミームに絡め捕られる宿命なのである。

 

競争において、他者に勝つことは、心地よい。他者との比較をとおして、自分の優位性が確認できる。しかし、上には上がいるものである。あるとき一番になっても、いつ抜かれるか分からない。一時の満足は、すぐに不安に席を譲り、やがてその不安は現実となる。競争とはそのようなものだろう。他者の不幸の上に、私の幸福があり、私の不幸の上に、他者の幸福がある。幸福が常に束の間ものであるのに対し、不幸はほとんど永続的である。これが、競争ミームのアルゴリズムである。

 

さて、・・・