夕飯のために、チヌ(魚)を捌いて(さばいて)いる。
まず、魚の体(たい)を観察する。すると、自然と、どの包丁を使って、どんなふうに捌くかというイメージ/見通しのようなものが、浮かび上がってくる。
チヌをシンクの中に置き、チヌの体の片面ずつ、うろこ取りでうろこを取っていく。チヌのうろこの大きさや硬さとうろこ取の形状から、自然と、うろこを取る要領が決まってくる。
うろこを取ったら、チヌをまな板の上に載せ、頭を落とす。その後の作業を考慮に入れ、落とし方は自ずと決まってくる。・・・etc.etc.
チヌを捌くのに、いくつもの工程があるが、初心者がこれらの工程をその都度何も参考にせず、誰に聞くこともなく、完璧にこなすことはまず無理である。ユーチューブの動画を何回も見たり、繰り返し練習したりすることで、彼の技は向上し、ついには、何も見ずに一人でできるようになる。
このように、練習も含めて、さまざまな実技において、実技の対象となるものの観察を含めて、その全工程において、私たちの体(たい)を貫き、働いているものこそ、純粋思考である。
このとき、私たちの体を通って(自我 → アストラル体 → エーテル体 → 物質体/肉体)、この場合は、チヌの体(たい)へと至り、そのチヌの体に働いている神々(霊的ヒエラルキア)の純粋思考を、他ならぬ私たちの純粋思考は捕捉する。
このような思考による捕捉行為を、直観/イントゥイションと呼んでも間違いではない。
このとき、私たちの純粋思考と神々の純粋思考とが、共振/共鳴している。同質/同種のものであるから、共振/共鳴することができるのである。
私たちのすべての生活の営みは、純粋思考による人間と神々との共振/共鳴なしには、成り立たない。
通常、私たちは、ミームが私たちの生活を成り立たせている、私たちの生活の基盤になっている、と考えがちだが、神々の純粋思考の働きなしに、そもそもミームは成り立たないのである。
ところが、ミームを媒介にすると、神々の純粋思考は見えなくなる。神々の純粋思考が見えないという状況下では、実相はどうあれ、私たちはミームを絶対視することになる。ミームに依存し、囚われた状態に陥る。
ミームの土台となるのが、私たちの体(たい)も含めた自然/森羅万象に働く神々の思考である。
あくまでも神々/霊的ヒエラルキア存在たちの思考であり、人間の思考ではない。
つまり、そこには人間の自我が関与していないのである。
ミームとの関連で言えば、ミームがあたかも寄生虫のように人間の魂に巣食い、悟性魂/心情魂として、第二の自我/低次の自我として、疑似的な思考を成すのに対して、人間の純粋思考は、あくまでも人間の自我から、意識魂の中に輝く。
人間の自我が純粋思考を成すことにより、意識魂が生起する。
悟性魂/心情魂の成す疑似的な思考とは何か。
それは、文脈イメージの形をとり、そのイメージに感情が付随している。
つまり、既製品としての文脈イメージに、ありきたりの決まりきった感情が付随しているのである。
そして、この悟性魂/心情魂のミームは、安っぽいセンチメンタリズムの枠(わく)をはみ出すことはない。
私たちは、日々のさまざまな生活場面において、自分で考えずに、生活に関わる諸々の意志決定を人任せにして、言ってみれば、楽して手っ取り早く、何もかも済ませようとしてはいないか。
悟性魂/心情魂ミームのおかげで、それはある程度可能である。しかも、自分が、ほぼ全面的に他者に依存している、など思いもよらない。ミームのアルゴリズムに従っているだけであることなど、思いもよらない。自分の意志だと思い込んでいる。
しかし、忘れてはならないことがある。
それは、ミームのアルゴリズムに従い続けていると、ふとした拍子に、他者への嫉妬心やイライラした感じが出て来て、さらには、なにかの拍子に、突発的な怒りの爆発のようなことさえ起こってくる。言い知れぬ孤独感や不安に苛まれるようになる。決まりきった毎日に嫌気が差す。飽きちゃったという感じになる。新奇さを求めて、危ないものに手を出す。例えば、ドラッグ、不倫、賭け事、無謀な投資、暴走行為、犯罪行為、etc.etc.・・・向こう見ずなこれらの行動は、要するに、タガを外したいという、ミームの縛りから脱け出たいという、無自覚な欲求の現れである。そこに、本人の思考が及んでいない、なーんにも考えていないから、無自覚なのである。本人は、「真剣なんだ」と言い張るかもしれないが、どう考えても浅はかである。
ところが、驚くべきことに、これらの無謀な行為さえ、ミームは織り込み済みなのである。想定内なのである。
その証拠に、これらの無謀な行為の個々の現れ方は、当然一つひとつ、時と場合、人によってどこかここか違うとは言え、どれもこれも、言ってみれば、ありきたりで似たり寄ったりで、いつか見た景色だな、いつか来た道だよな、とみんな何となく思うものだから。
つまり、純粋思考が働かなければ、新しいものは発見されない、新しいものは生み出されないのである。
さて、純粋思考によって見出される新しいもの、生み出される新しいものとは、何か。
人は、森羅万象の内に働く神々の純粋思考/思考体を発見する。
人は、神々の純粋思考/思考体と共振/共鳴する人間の作品を生み出す。芸術を生み出す。
話を、ちょっと前のところにもどしたい。
神々/霊的ヒエラルキア存在の純粋思考が、私たち人間の体も含む森羅万象を作り出したというこの宇宙の実相が、現代の唯物論的な自然科学のミームを媒介にすると、完全に見えなくなる。
しかし、人間の肉体/物質体に目を向けるだけで、すでに明らかだと思うが、その成り立ち/基本構造は種(しゅ)としての共通性を有する。そして、この共通性を土台として、人類は種々のミームを生み出してきた。個(こ)として生み出したのではなく、種として生み出した。
肉体/物質体は、それだけで単独で成り立つものではなく、人間の種々の体的な関連の中で、初めて生起し得るのである。
つまり、アストラル体-エーテル体-物質体という関連である。
そうした体的な関連を土台にして、ミームは初めて現象する。ミームという現象を起こしているのは、人間の個人の自我ではない。そうではなく、人類という種(しゅ)と共に、ミームは生まれるのである。人類の性(さが)のようなものと言えば、言えなくもないし、事実そうなのだ。
ミームと悟性魂/心情魂とは、人間存在というものの成り立ちを考えたとき、相互に照応し合う。
すでに悟性魂/心情魂を超え出る意識魂の時を迎えているのと併せ(あわせ)考えると、今、ミームを超え出る何ものかが、出現しようとしている、と言わねばならない。
それは、純粋思考であり、高次の自我であり、心理学的な言い方をするならば、新しい意識性である。
つまり、人は今、純粋思考によって、これまでは見ることのなかった森羅万象の(これまでは隠されていた)新しい姿を見るようになり、自分自身の新たな可能性を発見し、他者とのこれまでにはなかった新しい友好的な関係性を構築するためのヴィジョンを見出すのである。
ここで、キリスト・イエスによるゴルゴタの秘蹟にことを思い出すことは、実に、的を得たことだと言うべきである。
・・・瞑想(めいそう)。
キリスト・イエスが、ゴルゴタの丘で死に、アーリマン領界へと赴き(おもむき)、そして、その死の力に打ち勝って、復活する。
キリスト・イエスは、その復活に際し、物質体/肉体として復活したのではなく、濃縮したエーテル体/エーテル形姿として復活したのである。しかし、死に打ち勝ったことに変わりはない。物質体/肉体はもともと死の象徴でもある。だから、キリスト・イエスが、生命の象徴としてのエーテル体として現れることの意味は深いと言うべきである。
キリスト・イエスは、ゴルゴタの丘で磔られ(はりつけられ)、ローマの兵士によって槍で突き殺されなくても、人として物質体/肉体をもって生まれた以上、寿命が来たら、いずれは死ぬ。だから、受肉してこの地上を生きることは、ある意味では、すでに彼は死の世界に来た、とも言うことができよう。肉体/物質体(死)⇔ エーテル体(生命)。
彼は、アーリマンがその力をふるうこの地上の世界に受肉し、そこで生き、生活し、そしてゴルゴタの丘で処刑され、死ぬ。生命のない世界、アーリマン領界という死の深淵へと降りてゆく。
”さて、イエスは御霊(みたま)によって荒野(あらの)に導かれた。悪魔に試みられるためである。そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言(ことば)で生きるものである』と書いてある。・・・”(「マタイによる福音書」第4章)
「神の口から出る言」とは、ロゴスである。これが、まさに純粋思考/思考体であり、霊に他ならない。
そして今、人間の成す純粋思考が、意識魂の中に輝く人間の高次の自我によって司られる時が、訪れるのである。
謎(なぞ)が残らないわけではないが、・・・。
なぜ、キリスト・イエスは、エーテル体/エーテル形姿として、再び現れることができたのか。
ここに、最高の秘蹟/秘密がある。
キリストの霊、つまりキリストの自我が、それを可能にしたのである。
霊は、その純粋思考によって、種々の素材/要因を有機的にまとめ、関連づけて、ひとつの有機的組織体と成すことができる。
神々/霊的ヒエラルキア存在たちは、同様の霊的力(純粋思考)によって、森羅万象を成し、私たち人間の体をも成したのである。
キリストの霊/自我も、それを成す。
霊自ら、体(たい)を成す。
これが、ゴルゴタの秘蹟の意味である。
エーテル形姿で現れたキリストの纏って(まとって)いたエーテル体は、生命霊となったエーテル体である。霊化されたエーテル体である。
キリストは、ロゴス/純粋思考によって、宇宙に遍在する通常の生命を生命霊に変容させて、それを身体と成し、死の深淵から復活した。まさに、生と死の秘儀である。
人間が、自らの成す純粋思考によって、アーリマン領界/死の深淵から霊的/魂的に蘇る(よみがえる)ことができるということを、ここでキリストは示した。
ただし、ここで改めて確認しておかなければならないことがある。
それは、磔刑によって死ぬ前にすでに、つまり、キリスト・イエスが聖霊によって体を得て、この地上の世界に受肉したときにはすでに、キリスト・イエスのすべての体は、霊化されていた、ということ。霊化された人間の体の中に、キリストが入って来たのである。
そして、ゴルゴタの丘で死んだ時に、キリストは、いったん、それらの霊化された体を失った。体を失ったキリストは、人々の前に、目に見える姿で現れることはできない。
この構図は、私たちが死ぬと、やがて私たちの担っていた物質体が、鉱物界へと戻っていき、消えて、まだ生きている他の人には、私たちの姿はもう見えなくなるのと、同様である。
人間としての私たちは、キリストのように復活はしない。
物質体、エーテル体、アストラル体を脱ぎ捨てて、人によって程度の違いはあるが、霊化されたアストラル体/霊我(マナス)、霊化されたエーテル体/生命霊(ブッディ)、霊化された物質体/霊人(アートマン)と共に、煉獄(れんごく)/プルガトリオを経て、天界(てんかい)へと至り、再び、受肉への道を辿る。
通常、私たちは、それらの霊化された体をほとんど持つに至らずに、地上の生を終える。死後、私たちはもはや体をもたないから、体を霊化させる可能性はなくなる。不浄の体を、ただ脱ぎ捨てていくだけである。
だから、この地上に受肉し、この地上の生活を生きる意味は、霊化と言うに尽きるのである。
受肉することによって得た自らの体のみならず、人間の体とまさしく地続き(じつづき)の森羅万象を、霊化する、これが人間の使命である。極言すれば(換言すれば)、キリスト化する、ということに他ならない。
次に、クンダリニーの覚醒という最高度に霊的・生理的なプロセスを自ら体験し、ほとんど何も参考になるものがない中で、その霊的体験を記述して、他者と理解を共有するために、独自の語彙を生み出す孤軍奮闘の努力を強いられたゴーピ・クリシュナ(Gopi Krishna 1903~1984 インド)の言葉を引きたい。
”存在の謎の解明、超感覚的体験、自然界の隠れた力との交流、超能力の獲得といったことに対する願望は、多くの人びとの心を激しく突き動かしている。しかし、これこそ強力でありながらまだ十分究明されていないその衝動の表現形式であって、人間存在の深部に発し、かなり幼少の時から考え方や行動面にしばしば片鱗をみせ、人格の一部を構成するのである。きわめて明白なことであるが、あらゆる宗派や宗教、未開人にみられる残酷な祭祀、現代にも残る自らを責めさいなんだり傷つけたりする信仰を含め、ありとあらゆる信仰は、いずれも人間性に深く根ざす、ある強い願望の存在に発している。その表出形式には健康的なものもあれば不健康なものもあり、それこそ千差万別であるが、太古の未開社会から今日にいたるまで常に人類と共存していたのである。
あらゆる宗教的儀式や礼拝様式、あらゆる精神向上法や密教システムは、いずれも神聖なるもの、超感覚的なるものとの通信回路(コミュニケーション・チャンネル)の設定をめざし、存在の秘密へいたる探求路を提供している。それらによる人間の奥底にひそむ強い普遍的衝動にたいする満足の与え方は、適、不適いろいろである。地のしたたる残酷な犠牲供養を行なうもの、自分の肉体に傷をつけるもの、太陽を凝視して自らを盲目にしてしまうもの、針むしろに座して不断に肉体をさいなむもの、メロディのある詩歌を高唱するもの、ひたすら祈禱を繰り返すもの、ヨーガの実習に明け暮れするもの、その他精神的訓練を行なうもの等々、いろいろある。
この衝動は人間が出現したごく初期の頃から、宗教的信仰、迷信、あるいはタブーの中で、さまざまな形をとって表現されてきた。自然の物理的力にも知恵の働きを認めたい、墓穴に入ったあとも死者の魂が存続すると信じたいとしていた未開人の気持、全能の造物主を認め、それを礼拝しようとする文明人の心、これはいずれも同じ源から発している。古代インドの哲人によれば、これらはすべて、クンダリニーと呼ばれるきわめて複雑な機構を具えた人間の特殊装置の存在に由来しているのである。
神とか神秘なものに結びつく目的にはいろいろあろう。宗教的経験、霊との対話、実相の悟り、指導性の発揮、千里眼や予知力の獲得、超自然力による計画の実現、その他現世的、あるいは出世間的(しゅっせけんてき)目的等々。ただ、それらの欲求は同じ精神身体医学的源泉に発するところの、同じ木の幹からわかれた枝である。
生殖器官が種の保存を図る自然の有効な装置であるがごとく、クンダリニーは高い意識状態と超越的体験を達成するための自然の有効な装置である。この二者が接近しあって位置していることには深い意義が認められる。というのは、親の到達した発展段階や進化の方向は、種子を通して初めて子孫に伝達、存続されるからである。
・・・
・・・進化しつつある人類は、天才とか神秘家にみられるような資質を有するところの、より高度な人格をしだいに発展させようとしており、そのために頭脳や神経組織にしかるべき調整をほどこしながら、生命原理の洗練と発展をもくろんでいる。
・・・
人間の心の奥にある未知なるものを知りたいという要求、超感覚的知識や宗教的体験を得たいという衝動は、肉体の中に幽閉された人間の意識が、肉体的枠によって課せられている不都合を克服して、本来的偉大性に近づこうとしていることのあらわれである。
人間の進化とは、実際にのところ、人間の意識、肉体に宿る生命原理の進化を意味するのであって、それによって初めて、身体の中の自我は真の不死なる状態を認識するようになるのである。人間の進化とは、内なる精神の道具にしかすぎない知能とか理性の発達だけを意味するものではなくして、全人格の、すなわち表面意識と深層意識を含めたものの発展である。これには必然的に、生産的機関の分解修理(オーバーホール)と改造という作業が伴うのである。この過程を通じて初めて、普通人の肉体に宿るものを上まわる本質的により高級な、一段と高度な知性の住み家にふさわしい機関(マシン)が誕生するのである。
・・・予言者が定めた道徳的規準に則って(のっとって)生活することは、平均的人間にとってまず不可能に近い。一方、進化した人間の頭脳は全人格に浸透しているより高度の生命エネルギーによって養われ、現世よりは天国に向かって活動するのである。”(ゴーピ・クリシュナ『クンダリニー』中島巌訳 平河出版社 p. 75~80)
未だ生命霊に成るに至らない人間のエーテル体は、植物の有無を言わせぬ強引なまでの規則性と動物に見られる奔放な野生のエネルギーを保持している。
その狂暴な野生を統べる力は、通常の自我にはない。悟性魂/心情魂を以てしては、野生のままのエーテル体をコントロールすることはできないのである。
ただし、通常、エーテル体は神々/霊的ヒエラルキア存在たちによって、その純粋思考によって、均衡を保つから、この地上の生活を営む上で、そうそう問題が起こってくることはない。
しかし、なんらかのきっかけで、悟性魂/心情魂ミームに亀裂のようなものが生じて、人間の魂において、霊界と地上の世界の関係性に、それまでにはなかった一種の不均衡が現れると、事(こと)はややこしくなる。
この不均衡を修復する術(すべ)は、私の知るかぎり、見つかっていないし、そもそも何が自分の身に起こっているのかさえ、当人には理解できない。そして、あろうことか、自然科学的医療に、このような現象を説明する能力はない。治療など、及びもつかない。
霊界と地上の世界との間に生じる関係性の歪み(ゆがみ)。まさに人類史上における一大危機なのだが、これを解明し、説明し尽くすための概念体系・認識システムを、私たちはまだ保有していない。
つまり、結論を前倒しで述べてしまうことになるが、・・・意識魂の目覚めとともに、人間の純粋思考への意識性が、私たちの魂の内に上昇(rising)し始めたようだ、ということなのである。
ルドルフ・シュタイナーに倣って(ならって)、明言しておきたい。
意識魂と純粋思考の旗印は、大天使ミカエルである。
意識魂が目覚めるときには、必ず・・・。
言うまでもないことだが、ミカエルはキリストのために働く。
キリスト → ミカエル ⇔ アーリマン という構図になる。
つまり、まさに今、人類の魂と社会のすべての領域において、ミカエルとアーリマンとの熾烈な戦いがなされているのである。
アーリマンは、アンチ・キリストとして、すべての生命的なるものと敵対する。
物質にも宿り得る生命の源は、霊/精神にあり、霊/精神が思考/思考体であることを考えれば、思考から生命へと通じる直接的な関係性を、他ならぬ自らの純粋思考によって捕捉することが、今、求められているのだが、今のところ、このすぐれて実践的な課題に危機感をもって、そして勇気をもって、かつ用心深く(いや注意深く)適切に、的確に取り組んでいる人間は見当たらない。
私たちの純粋思考は、未だ霊の薄明の中にある。
キリストの有機性に対して、アーリマンの無機性。
キリストの生命に対して、アーリマンの機械。
キリストの霊/精神に対して、アーリマンの唯物論。
キリストのロゴスに対して、アーリマンのコンピューター。
今、意識魂の時代となり、純粋思考を成す人間の自我が、高次の自我と成り得る人間の自我が、一人ひとりの人間の魂の内に目覚め得るようになった。
そのような人間の自我は、純粋思考を成すことに、未だ不慣れな状態にあると言わざるを得ない。まだ、ものごとの始まりの時であるから、それはやむを得ないことではある。
しかし、兆し(きざし)は見られるのだ。新しい時代の始まりの兆しである。この微かな(かすかな)兆しをしっかりと見極めなければならない。時を逸することは、許されない。そのように、ミカエルが警告を発している。
一方にアーリマン/ルシファー由来のミームの世界がある。
ミームの世界の代表であり、そのあからさまな象徴のような存在こそ、今や AI(人工知能)によってその世俗的なる頂点を極めるコンピューターである。
アーリマン的な観点からすれば、どんな学者よりも、コンピューターの方が頭がいい。そして、今や、人間の関わるあらゆる生活領域(学問の領域を含む)において、私たちはほとんど無批判に、あまりにもナイーブに、コンピューターを活用している。そうして私たちは、ミームに絡めとられ、盲目的にミームに従うようになる。そして、そのことに無自覚である。純粋思考が働けば、無自覚ではいられない。
”・・・私たちは、いわゆるアトランティス後の第五文化期を生きています。この第五文化期は十五世紀に始まり、三千年紀の終わりか、四千年紀の初め頃まで続きます。この時代には、人間はいわゆる意識魂を発達させることになっています。したがってこの時代に含まれるあらゆる重要な問題は、結局は「意識魂の形成」と呼ぶことのできる一つの目標を指し示していることになります。苦痛を伴う出来事や喜ばしい出来事、人類にとっての試練となる出来事や人類を幸福にするための神の賜物と呼ぶことのできる出来事、つまりこの時代の光に満ちたものも影に覆われたものも、すべては人間に、自分自身について、あるいは世界と自分自身とのつながりについて、ますます解明してくれる役割を果たしているのです。意識的に世界の中に身を置くことによって、人間は初めて「あるもの」を獲得します。・・・人間は自己鍛錬によって、この「あるもの」をようやく獲得することができるのです。この「あるもの」とは、「自由な人間的人格」、あるいは「自己鍛錬に基づきながら、意志を現実的に取り扱うこと」にほかなりません。これを育成していくことが、この第五文化期における人類の課題になるでしょう。この点に関して平易な表現を試みるならば、次のように言うことができるでしょう。「人類がこのような道を歩むように助言するのは、あの神的な存在たちである。人間は宇宙に誕生したときから、このような神的な存在たちと結びついていたのだ。神的な存在たちは段階的に人間を導いていく。しかしこのような神的な存在に、二つの側から対抗する力が存在する。それを私たちは普通、アーリマンとルシファーの力と呼んでいる」。”(「アーリマンの学院と人類の未来に関する三つの予言」より ルドルフ・シュタイナー『悪の秘儀 アーリマンとルシファー』松浦賢訳 イザラ書房 p. 144,145)
「意識的に世界の中に身を置くことによって、人間が初めて獲得する『あるもの』」、それは「自由な人間的人格」「自己鍛錬に基づきながら、意志を現実的に取り扱うこと」だ、とシュタイナーは語る。これを、高次の自我と純粋思考であるとみなすことができる。「自由な人間的人格」という表現によって、自我の意志が示唆される。意志を持つ者のみが、自由を問題にできるのだから。また、自我つまり主体(性)なしに、意志は存在し得ない。「自己鍛錬」とは、「意識的に世界の中に身を置くこと」に他ならないと考えられる。つまり、最大限の意識性をもって、自らの体(たい)を駆使できるように努めるということである。今の社会においても、諸々の生活領域に、その道のプロがいるわけだが、彼らその道のプロフェッショナルが自ら巨匠になるために実行しているのと同種の営みを、私たちは日々の日常生活の種々の生活領域において成す、それによって「意志を現実的に取り扱うこと」を実現することが求められる時代が訪れた。
「この時代に含まれるあらゆる重要な問題は、結局は『意識魂の形成』と呼ぶことのできる一つの目標を指し示している」。
そして、私たちが日々の生活を営む中で遭遇し、いわば巻き込まれることになる様々な出来事、実際のところ、純粋思考が働くことによって初めて、それらの出来事の意味するところが明らかになるのだが、シュタイナーは、「すべては人間に、自分自身について、あるいは世界と自分自身とのつながりについて、ますます解明してくれる役割を果たしている」と端的に述べている。つまり、「キリストの出来事/Ereignis」こそが、出来事という事柄の原形である、という意味において、すべての出来事は、自我の秘儀としての性格を持ち、自己認識と世界認識の意味合いを有するのである。そして、そのいわば秘儀的認識は、純粋思考によって成されるのである。
悟性魂/心情魂ミームは、文脈イメージから成っており、イメージ/感情のセンチメンタリズムの迷宮である。イメージ/感情はルシファー由来である。
そして、悟性魂/心情魂の下方に、感覚魂があって、私たちの通常の魂は成立している。
感覚魂が悟性魂/心情魂の基盤であり、そこには鉱物界(鉱物界以下の領界)からアーリマンが浸潤している。
アーリマンは、感覚魂を通して、重力と三次元空間という人間にとっての生活条件をもたらす。
アーリマンの提供するこの生活条件(重力と三次元空間)に徹頭徹尾(てっとうてつび)従う形で、悟性魂/心情魂としての文脈イメージが形成される。予定調和のアルゴリズムの世界である。この領域においては、人は自分で考え、自分の意志を生み出す必要がない。なぜなら、すべてはすでに決まっていて、新しく何かを生み出す必要はないどころか、既存の文脈イメージからはみ出たり、それと対立するような新奇なものは、邪魔なもの、余計なものとみなされる。端的に、ルール違反だとレッテルを張られるのである。多くの場合、「レベルが低い」「水準以下である」などと見下される。
さて、重力と三次元空間という生活条件に従って、文脈イメージが形成されるわけだが、そのことによって、過去から未来へと進むかに見える時間が、現象する。
文脈イメージのアルゴリズムの性格として、何事かが始まると、その何事かはゴールに向かうということがある。つまり、スタートして、経過があり、ゴールする。時間の経過が感じられるようになる。
霊界には、そのような時間は存在しない。
アルゴリズムの文脈イメージとそれに付随する感情。悟性魂と心情魂。どこまでもありきたりの決まりきった、いわば旧式のセンチメンタリズム。
すべてのミームは、ここから来る。
感覚魂(アーリマン) → 悟性魂/心情魂(ルシファー) → ミーム。
そして、私たちは自ら考えることなく/思考することなく、自らの自我と意志とを生み出さず、ミームと同化している。
ミームとの同化から脱け出たとき、初めて、意識魂が目覚める。
ただし、ミームから離脱することには、かなり大きなリスクが伴う。
なぜなら、ミームはもはや古くなった生活基盤(生活様式や生活習慣、伝統や慣習 etc.)であるとはいえ、それ以外のものを私たちは通常持ってはいないので、そうした支えなしには、私たちは通常の生活を送ることができなくなるから。
とはいえ、いずれにしても、私たちは、これまでとは違った生活の仕方をしなければならない。新しい意識性に目覚めなければならない。
意識魂の時代は、もう始まった。意識魂の時代とは、純粋思考の時代である。そして、どちらも今までなかったが故に、ほとんど誰も、それについて知らないのだ。
つまり、意識魂は意識魂によって、純粋思考は純粋思考によって、思考される以外、人間の魂はそれについて知る方法はない。
意識魂の目覚めの前に、そして純粋思考の始まりの前に、アーリマンとルシファーの罠として、障壁として、ミームが強大に/強力に現象している。
いずれにしても、このような状況が、人類にとって、大きな試練であることは疑う余地がない。
これに、いつまで、人類は無自覚でいるつもりなのか。
出来事が起こる。
ぼんやりしている私は、それに気づかない。
気づかない私は、それに気づいた人がいても、そのことも分からない。
やがて、次の出来事が起こる。
やはり、私は気づかない。何も起こっていないと思っているのだ。
そして、次の出来事が・・・
もし、誰一人気づかないままだとしたら、・・・
・・・出来事は常に霊的であり、それは人間に何かを気づかせるために生起する。
つまり、霊的な知らせであり、それは純粋思考によって認識される。
さて、