お金についての考察 | 大分アントロポゾフィー研究会

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お金の現象は、いかなる経済理論でもカバーできない。なぜなら、それは経済現象の枠を超えるからである。

もちろん、かく言う私が、数学や計算に弱く、経済学の本を通読しようとすると途端に吐気がして、全部読めたためしがない、ということもあって、このように言うというのは、当然と言えば当然の話ではないだろうか。

とにかく数式というものには、何と言えばいいか、生理的な拒否感のようなものを感じるので、物理学や化学、その諸々の自然科学や応用科学の類の本は、読めない。読む能力と技術を欠いているのだ。そして、今ではもう、そんなものを読もうというモチベーションさえ、消失した。

記号論理学もさっぱりわからない。若い頃、ヴィトゲンシュタインに興味があった私には、とにかく記号論理学を学ばなければというとんでもない気負いがあったけれども、今はそんなものはない。記号論理学やゲーデルの不完全性定理など、分からなくてかまわない、と思っている。ただ、そういったものの人類史的な位置づけは、自分なりにしておく必要があるので、そのための努力はしてきた。徹頭徹尾、自分で考えるということだ。自分で考えずに分かったふりをしている人、分かったつもりになっている人が大半である、という現実を、徹頭徹尾自分で考え抜くという立場に立った私は、すでに見通している、ということなのである。

 

だからと言って、そのような数式や記号式を濫用する〇〇学が苦手な一般大衆を、私が代表しているなどと言い張るつもりなど、これっぽっちもない。

 

今は、いろいろなそんなもの分からなくて当然だ、という境地に至った。急進的アーリマン主義的唯物主義的悟性魂ミームにからめとられた、そんなこんなのなんだかわけのわからない気持ちの悪いものの軍門に下る必要などまったくない。そのつもりももちろんない。

私は私なのだ。私が考えればいい、というただそれだけなのである。私は、霊的リアリストなのだ。純粋思考によって、霊視へと至るのが、私のような人間の使命である。まさに真剣勝負だ。もちろん、このように言ったからといって、カッコつけてるわけではまったくない。

 

なんだか前置きが長くなってしまった。

早速、本題に入ろう。お金についての考察である。