私たちは、自らの魂の空間に浮遊し、充満している種々のイメージの、いわば罠にはまった状態だ。
本当は、それらイメージに囚われるのではなく、自ら成す思考の力で、人生を切り開いていかなければならないはずなのに。
イメージからイメージへ、こちらのイメージから次はそちらのイメージへ、そして今度はあっちのイメージへ・・・。
要するに、なんにも考えていないのである。イメージからイメージへと、ほとんど動物的に飛び回ることが、考えることだと勘違いしている。
イメージからイメージへ、というこの堂々巡り状態のことを、ちょっと使い古された言い方だが、私は、「アストラル投射」と呼ぶ。
イメージの魔術性とその依存性を表すのに、なかなか禍々しくて(まがまがしくて)、相応しい(ふさわしい)感じがするのである。
感覚的イメージは、思考とは言えない。
身体的イメージは、思考ではない。
言語的イメージは、思考ではない。
文脈イメージは、通常の意味における思考、つまり悟性的思考とみなすことができる。
感覚的イメージは、所与であり、私が生み出したものではない。
身体的イメージは、所与であり、私が生み出したものではない。
言語的イメージは、所与であるが、これもやはり神々に由来するものとみなすべきである。
文脈イメージは、感覚、身体、言語の各イメージから成るが、それら素材となる各イメージを組み合わせるのは、人間である。
一度出来上がってしまった文脈イメージは、人間界において、ほとんど際限なく複製され、コピーされ、多くの人間の魂によって共有されるようになってゆく。
つまり、私たちは、もはや自ら思考する必要を感じなくなるのである。
あたかも所与であるかのように、私たちの魂の内に居座るようになった、(何者かも分からない)他者の悟性的思考の写しである文脈イメージに従えばいい、というわけである。きわめて安易である。
このような特徴を持つ文脈イメージ全般を、ミームと呼ぶことができる。
*cf. リチャード・ドーキンス(Clinton Richard Dawkins)、スーザン・ブラックモア(Susan Blackmore)
つまり、ミームが、これまでの人類史において、人間の集団の共同性が、依って立つ基盤であり続けてきたのである。
とにかく、自分の所属する何らかの人間集団の共同性基盤であるミームを学習し、それに従っている限り、とりあえずは安泰であり、その価値体系の中で、つまり、「上を目指す」こともできるわけだ。
もちろん、この競争に勝ち残り続けることは、確率論的/統計学的に見て、ほとんど不可能である。
また、「上を目指す」などと言っても、そのトップ/頂上は、実のところ、そんなに高い所にはない。知れているのである。
「そんなどうしようもないもの目指してどうするんじゃ」と、どこぞの仙人や七福神(しちふくじん)たちは、言い続けてきた。
だが、特定のミームに同化している人間には、自分たちの演じる、この悲喜劇が見えなくなるものだ。
裸の王様とその従者たち、そして道化師・・・
何らかのミームに同化すると、そこから抜け出すことはきわめてむずかしくなる。
ミーム、すなわち文脈イメージ/イメージ体は、特定の感覚的イメージ、身体的イメージ、言語的イメージを、素材として自らの構築に用いる。
極言すれば、それら個々のイメージの選択は恣意的であり、多くのイメージが、その選択から漏れることは避けがたい。
当のミームからすれば、選ばれたイメージは見えるが、選ばれなかったイメージは見えない。
そのようにして、各々のミーム特有のアストラル空間が形成される。アストラル投射の繰り返される魂の空間が、まさに幻像のように出現するのである。
同じミームを共有する共同体メンバーは、等質のアストラル空間に安住し、彼らが内在化しているミームの仮象性と虚構性を疑うことはない。
それを疑い始めた人物が現れると、彼は、異質な者/アウトサイダーとみなされ、共同体から疎外/排除される。
彼は、他のメンバーには見えないものを見てしまったのだ。
彼は、他のメンバーが盤石のものと思い込んでいるミーム、つまり古き悟性的思考が、いまや時代の諸々の出来事にそぐわなくなり、人間の自由を奪うものであることに気づいてしまったのだ。
そのようにして、意識魂の時代が始まる。
純粋思考を成す人間が、登場する。古代におけるような古い霊視ではなく、新しいエーテル的霊視を成す人間が、現れる。
イメージを見るのではなく、実相を見るのだ。
一つ補足しておくと、文脈イメージの集合体としてのミームは、ものの見方を規定するが、同時に、その感じ方/感情も規定するのである。
だから、悟性魂は、常に、心情魂とセットになっている。悟性魂/心情魂である。
そして、この悟性魂/心情魂こそが、いつもありきたりで古くさいものであり続けるセンチメンタリズムの、いわば温床(おんしょう)なのである。
だから、アストラル投射などと言って、恰好(かっこう)をつけてみても、そこに新しいものなどなく、もちろんそれは芸術ではあり得ず、旧来の何らかの文脈イメージの繰り返し/複製/コピーでしかない。陳腐なのだ。
”・・・物質体は物質的な素材の世界のなかから形成され、その構造は思考存在としての自我をめざして秩序立てられます。生命力によって貫かれることによって、物質体はエーテル体あるいは生命体になります。このエーテル体は感覚器官をとおして外に向かって開かれ、魂体になります。この魂体のなかに感覚魂が浸透し、魂体と一体になります。感覚魂は、一方においては感覚の作用を受け取り、他方においては思考の作用を受け取ります。このようにして感覚魂は悟性魂になります。悟性魂は、下方向の感覚に対して開かれているだけではなく、上方向のイントゥイションに対しても開かれているからこそ、思考の作用を受け取ることができるのです。直観に対して開かれることによって、悟性魂は意識魂になります。物質体が悟性魂のために感覚器官を形成するのと同じように、霊的な世界が悟性魂のなかに直観するための器官を形成することによって、悟性魂が意識魂になることが可能になります。感覚が魂体をとおして感覚的な知覚を生じさせるように、霊はイントゥイションのための器官をとおして悟性魂にイントゥイションをもたらすのです。物質体が魂体のなかで感覚魂と結びついているのと同じように、霊人は意識魂と一つに結びつきます。意識魂と霊我は一つの統一体を形成します。エーテル体が魂体のために「体(たい)」として生活する基盤を形成しているように、霊人はこのような意識魂と霊我の統一体のなかで生命霊として生活します。そして物質体が物質的な皮膚のなかで完結しているのと同じように、霊人は霊の覆いのなかで完結しています。・・・”(ルドルフ・シュタイナー『テオゾフィー 神智学』松浦賢訳 柏書房 p. 47,48)