以下、引き続き、ルドルフ・シュタイナー『いかにして高次の世界を認識するか』(松浦賢訳 柏書房)から、抜粋する。引用個所のページ番号は、それぞれ冒頭に置く。
136 喉頭の近くにある霊的な感覚器官には、16の「花弁」あるいは「輻(や)」があります。
また心臓の近くにある霊的な感覚器官には12の花弁(あるいは輻)、みぞおちの近くにある霊的な感覚器官には10の花弁(あるいは輻)があります。
ある特定の魂の活動が、これらの霊的な感覚器官の育成と関わりあっています。私たちは特定の方法で魂を活動させることによって、それに対応する霊的な感覚器官を育成する手助けをするのです。・・・
136,137 ・・・「16弁の蓮華」のうち、8枚の花弁は太古の昔、人類の過去の進化段階において既に形成されていました。太古の人間がこれらの8枚の花弁を育成するために、何らかの働きかけを行うことはありませんでした。当時の人間は夢見るような鈍い意識状態のうちに、8枚の花弁を自然からの贈り物として受け取ったのでした。この頃の人間の進化段階において、8枚の花弁はすでに活動していました。このときの花弁の活動は、鈍い意識状態とのみ結びついていました。そしてその後、人間の意識状態が明るくなるにつれて、花弁は暗くなり、活動を停止してしまいました。現代の人間は意識的な訓練をみずから行うことによって、過去に活動していた8枚の花弁以外の、残りの8枚の花弁を育成することができます。そうすれば蓮華全体が光を放ち、活動するようになります。人間の特定の能力を獲得することによって、16枚の花弁がそれぞれ発達を遂げるのです。ただしすでに述べたように、16枚の花弁のうち、人間が意識的に発達させることができるのは8枚だけです。そうすれば残りの8枚はおのずと姿を現します。
*私見・・・太古の昔、人間は後の時代ほどには、個別化/個体化していなかった。一人ひとりの人間は、まだ Ich/わたし という鮮明な自我意識/個我意識を発達させるに至っていなかった。彼らは、むしろ自然との一体感を、夢の中でのように感じることができ、共同体の部分/一員であること、そして共同体のヒエラルキー構造を、彼らの生活感覚/生活感情の土台としていた。「当時の人間は夢見るような鈍い意識状態のうちに、8枚の花弁を自然からの贈り物として受け取った」のである。この8枚の花弁の活動によって、彼らは、彼ら独自の純粋思考を成した。古い霊視である。
現代に生きる私たちは、そのような古い霊視に戻ることはできない。
cf. ・・・”「神秘学を学ぶ人は、完全な意識を保ったまま訓練を行わなくてはならない」ということが、真の神秘学の原則の一つです。神秘学の学徒は、それがどのような作用を及ぼすのか、ということを自分で認識していない事柄に関しては、どのようなことも行ったり、訓練したりしてはなりません。だからこそ神秘学の師は、学徒に助言したり、指示したりするときには、このような助言や指示に従うと高次の認識をめざす人間の体や魂や霊に何が生じるのか、ということについていつも同時に教えるようにするのです。
・・・ここで述べられるような事柄を知ることによって、私たちは初めて、完全な意識を保ったまま、超感覚的な世界の認識をめざす訓練に取り組むことができるようになります。そしてこのような人だけが、真の神秘学の学徒なのです。暗闇のなかを手探りで進んでいくような態度はすべて、真の神秘学の訓練においては厳しく禁じられています。目を見開いたまま訓練を行おうとしない人は、霊媒にはなれるかもしれませんが、神秘学的な意味における霊視者/Hellseher になることはできないのです。”(ルドルフ・シュタイナー『いかにして高次の世界を認識するか』松浦賢訳 柏書房 p.133)
137 私たちは8枚の花弁を発達させるための訓練を、以下のように行います。私たちは、ふだんは注意をはらわないでいいかげんに扱っている、特定の魂的な営みに細かく注意を向けなくてはなりません。このような魂の状態は、あわせて八つあります。
137 第一の状態は、私たちが表象を獲得する方法と関わっています。通常の場合、私たちは外界に関する表象(イメージ)を獲得するとき、すべてを偶然にまかせています。私たちはさまざまなことを聞いたり、見たりし、それに従って自分自身の概念を形成します。このような方法で表象を獲得している限りは、私たちの16弁の蓮華はまったく活動することはありません。私たちがみずからの表象に注意をはらうことをとおして、自分自身を育成する訓練に着手するとき、ようやく16弁の蓮華は活動を始めるようになります。この場合、一つひとつの表象が、私たちにとって重要な意味をもつようにならなくてはなりません。私たちは、それぞれの表象のなかに、特定のメッセージや、外界の事物に関する情報を見出すようにします。私たちは、重要な意味をもたない表象に満足してはならないのです。私たちは、外界を忠実に映し出す鏡となるように、秩序立った概念を作り上げるようにします。そして正しくない表象は、私たちの魂から遠ざけるように努めます。
*私見・・・私たちの魂の空間は、イメージで満たされており、通常、私たちは、それら個々のイメージに引き寄せられ、イメージの持つ引力によって、いわばその軍門に降る(ぐんもんにくだる)。イメージに支配されているという自覚がなく、なぜそのイメージに魅せられるのかも分かっていない。イメージ/感情が支配しており、思考は機能していないのである。イメージと一体化/同化していること、イメージに依存/執着していること、それによってほとんど絶対的なまでの救いがたい主観性の罠に囚われていること、他者の現実が見えなくなっていること、etc. このいわゆる無批判の/ナイーブなイメージ依存(症)が、私たちの人生にもたらす弊害は甚大である。私たちの人生における様々な問題、社会問題の源は、ここにあると言ってよい。
霊/精神との結びつきが薄弱な場合、あるいはその結びつきに矛盾がある場合、イメージは魂にとって、毒のようなものとなる。だから、「それぞれの表象のなかに、特定のメッセージや、外界の事物に関する情報を見出すように」努めなければならない。そのようにして、いわば解毒するのである。イメージを観察対象として位置づけ直す。そのためには、イメージと一体化してしまった自分を、イメージから引きはがし、イメージと距離を置かなければならない。イメージに批判的に向き合うのだ。「外界を忠実に映し出す鏡となるように、秩序立った概念を作り上げる」という行為は、まさしく思考そのものであり、私たちは思考によって、イメージ依存(症)から回復/回帰するのである。
137,138 第二の魂の状態は、第一の状態と同じような意味において、私たちが下す決断と関係があります。私たちはどのようなささいな事柄に関しても、根拠のある十分な考えに基づいて決断するように努めなくてはなりません。よく考えないで行う行動や、意味のない行為は、すべて私たちの魂から遠ざけるようにします。どのような行為にも、よく考え抜かれた根拠が必要です。そして意味のある根拠が見出せないような行為は、思いとどまるようにします。
*私見・・・通常、私たちの魂の内に、意志の要素を見出すことは困難である。この場合、何が私たちの行動の指針となっているのかと言うと、他ならぬイメージ/感情である。なぜそうした諸々のイメージに惹かれるのか、という何の自覚もなく、私たちはイメージに依存し、それに執着するということを、繰り返す。感性イメージ、身体性イメージ、文脈イメージが、その強力な具体性/身体性、そして因習/ミームの力によって、人間の魂の眼を眩ます(くらます)。つまり、こうなってくると、もはや人間は、主体性を失い、イメージによって操られているのに等しい状態となる。「どのような行為にも、よく考え抜かれた根拠が必要」なのである。よく考え抜くこと、つまり純粋思考を成すことから、行為の根拠/意志が生み出される。なぜなら、私たちは、純粋思考を成すことによって、霊/精神を見聞きし、その意図を知るようになるからである。
138 第三の状態は話すことと関係があります。神秘学の学徒は、意味があることや、重要なことだけを話すようにしなくてはなりません。話すことのみを目的として言葉を語ると、学徒は正しい訓練の道からはずれてしまいます。話す内容がよく選ばれないまま、あらゆる雑多な話題がごちゃまぜに語られるような通常の会話を、神秘学の学徒は避けるようにします。ただしこの場合、ほかの人間とつきあわないようにすべきだといっているわけではありません。むしろほかの人間とつきあうときにこそ、学徒が話す言葉は、意味のあるものとなるように発達していくべきなのです。学徒はよく考え、あらゆる点を考慮に入れた上で、さまざまな事柄について語ったり、答えたりしなくてはなりません。学徒は根拠のない事柄については、けっして語らないようにし、さらに話す言葉が多すぎたり、少なすぎたりすることがないように気をつけます。
*私見・・・「あらゆる雑多な話題がごちゃまぜに語られるような通常の会話」は、言葉が実相/思考から分離し、イメージを示す単なる記号と化した現代の時代状況に特徴的な現象である。魂の空間に種々のイメージ/仮象しか見当たらず、それぞれのイメージの関連さえ、もはや問題とならない。だから人は、あるイメージから別のイメージへと、せわしなく、恣意的に飛び回るのである。そして人は、なぜ自分がそのように飛び回っているのか、その理由を知らない。理由など問題とならない。イメージさえあれば、それでよい。万事解決している、と感じているのである。そのように、いわば浮遊するイメージとともに、日常生活が営まれている。私たちの日々の生活を根底から支えているのは、地上の生活に意味を与えている(かのように感じられている)のは、文脈イメージ/因習/ミームである。しかし実のところ、言葉ならびに生活を意味あるものと成すのは、霊/精神なのであって、死んだ思考/思考の影である文脈イメージ/因習/ミームではない。だから、私たちは、こうした非霊的な事柄から距離を置かなければならないのである。
見かけ上、非霊的なイメージの言葉と純粋思考の言葉との見分けがつかない。だから、まさに内なる他者としてのイメージをそのまま鵜呑み(うのみ)にするのではなく、出来合いの文脈イメージ/言語ゲーム/因習を無批判に複製/コピーするのではなく、自ら思考し、純粋思考を成し、「外界を忠実に映し出す鏡となるように、秩序立った概念を作り上げる」ことこそが必要なのである。あたかも、その「鏡」が、私の口を借りて、語るように。純粋思考によって作り上げられた「秩序立った概念」を語るように。その「概念」が、語っているように。語っているのだ。~ cf. 聖霊降臨
138,139 第四の魂の状態は、外に現われる行動を制御することと関係があります。神秘学の学徒は、ほかの人間の行動やまわりの世界の出来事と調和するように、自分自身の行動を整えるように心がけなくてはなりません。学徒は、ほかの人の妨げとなったり、まわりで起こっている出来事と対立したりするような行動は控えるようにします。学徒は、みずからの行動がまわりの世界や自分が置かれている人生の境遇などに調和的に組み込まれるように、行為に一定の秩序をもたせます。それ以外の誘因によって行動するようにうながされる場合には、よく考えます。自分自身をよりどころとして行動するときには、学徒は、自分が行う行為がどのような作用を及ぼすことになるか、ということを可能な限り明確に考えます。
*私見・・・イメージとともに、イメージのカオスに翻弄されながら、行動することで、私たちの行動から一貫性が失われ、カオス的なイメージそのままに、私たちの生活はカオスと化してゆき、生活のさまざまな場所で、衝突や対立が起こってくる。そして私たちは、そのような衝突や対立の本当の理由/原因を知ることなく、また知ろうともせず、驚くべき主観性の中にとどまり続けるのである。この恐るべき主観性の牢獄から脱するためには、純粋思考を成さねばならない。純粋思考を成すことによって初めて、私たちの魂の空間に充満しているイメージの仮象性が明らかになる。つまり、イメージの世界が相対化され、それがアーリマン/ルシファー幻想の迷宮であることが分かれば、私たちはそこから解放されるのである。そして、そのときにはすでに、そのような仮象の世界ではない、霊たちの世界が垣間見えて(かいまみえて)いるので、私たちはもはや足場を失うというようなことはない。霊/精神とは、思考存在であり、それは純粋思考そのものであり、人間の他者が、私(Ich/わたし)と同様に、霊/精神/思考存在であること。私たちの肉体/物質体もそれに由来する自然/大地が、神々の純粋思考の産物であること。そのような、いわば世界/宇宙の実相に、私たちは気づいているので、まさに私たちの感性が根本的に変革されるのである。
cf. ”知覚の 扉 澄みたれば、人の 眼に もの みな すべて 永遠の 実相を 顕(あら)わさん。”(ウィリアム・ブレイク)
139 これに続く第五の魂の状態は、人生全体を整えることと結びついています。神秘学の学徒は、自然や霊に従って生きるように努めます。学徒はどのようなことをするときにも、過度に急いだり、怠けたりしないようにします。学徒は仕事をしすぎることも、怠惰な生活を送ることも避けなくてはなりません。学徒は生活を仕事のための手段と見なし、それに従って自分自身を整えていきます。学徒は、調和的な生活が生み出されるように、健康を管理したり、習慣を整えたりします。
*私見・・・「人生全体を整えること」は、純粋思考を成すことによってのみ、成し遂げられる。純粋思考ができなければ、それは不可能である。なぜならば、それは、霊/精神を見出し、霊/精神を土台にして、そこから来る意志/インパルスにうながされることで、成されるからである。純粋思考がそれを可能にする。私たちの「仕事」は、純粋思考とカルマの交点において、いわば運命的にもたらされる。ただし、この運命的な文脈を、出来合いのイメージによって、恣意的に解釈することは許されない。それは、センチメンタリズム/sentimentalism である。出来合いのイメージとは、因習/ミームである。
139 第六の魂の状態は、人間の努力と関連があります。神秘学の学徒は自分自身の才能や能力について検討し、このような自己認識に基づいて行動します。学徒は、自分の力が及ばないことには手を出してはなりません。かといって学徒は、自分の力の範囲内にあることを、やらないですませてもなりません。その一方で学徒は理想や、人間の大いなる義務と関わる、みずからの目標を立てます。学徒は、何も考えないまま、一個の歯車のように人類という駆動装置に組み込まれることはありません。学徒はみずからの課題を理解し、日常的な事柄を超越したものに目を向けるように努めます。学徒は自分自身の義務をよりよいものに、より完全なものにするために努力します。
*私見・・・「理想や、人間の大いなる義務と関わる、みずからの目標」は、「自己認識」を経て、立てられる。おそらく、そのような「目標」は、恣意的に生み出されるようなものではなく、外部から来るものでもなく(他者から設定してもらうようなものではなく)、利己的なものでもない。自らの個体性を、霊的なもの/全体性に結びつけるのだ。自らの本来の故郷が、霊の国にあることを、思い出す/想起するのである。この想起のことを、「自己認識」と呼ぶ。この想起の中で、わたしは霊界のネットワーク/コミュニオンを目の当たりにする。どの霊的存在も、それぞれの役割を持ち、霊的コミュニオンのために働いていることを知る。この場合、「自分の力が及ばないこと」をやりたいと思うことは、無意味であり、そのような無理強いは、他者にとっては迷惑きわまりない。わたしは、「自分の力の範囲内にあること」を、やらないですますことはできないのである。なぜなら、そのことこそが、わたしの役割であり、義務でもあるのだから。この場合、役割、義務、仕事は同義である。そして、これらの言葉は、理想という言葉とともに、霊的地平を獲得する。まさしく、「日常的な事柄を超越した」事柄なのである。
140 魂の生活の第七の状態は、人生から可能な限り多くのことを学ぼうとする態度と結びついています。どのような事柄も、人生に役立つ経験を集めるきっかけを与えないで、学徒のかたわらを通り過ぎていってはなりません。正しくない、不完全な方法で何かを行った場合には、それはのちに学徒が同じような事柄を正しく、完全に行うためのきっかけになります。また学徒は、同じような目的のためにほかの人の行動を観察します。学徒は経験を宝物のように豊富に集めて、どのようなことをするときにも、注意深く、この経験の宝物に照らしあわせて検討するようにします。何かをするときには、学徒は、決断したり、行動したりする上で手助けとなるような、過去の体験をかならずふりかえってみるようにします。
*私見・・・私たちは、いずれにしても、経験から学ぶのである。地上の人生を生きる中で遭遇する事象や出来事から学ぶ。私たちは、それによって成長するのである。そのために、私たちはこの地上の世界に生まれてきたのだ。霊は体を必要とし、魂を介して体とつながる。
cf. ”魂は体と霊の中間で生活しています。・・・私が霊をとおして認識する事柄は、魂的な生活の要素から生じます。このような魂的な生活の要素をとおして魂は、過ぎ去りゆく体と関わらないで開示される世界の内容と結びつきます。・・・私たちは、「魂が開示を受け取るときには、魂の過ぎ去りゆく体的な基盤ではなく、過ぎ去りゆくものと関わらない魂的な要素が重要な役割をはたしているのではないか」と問いかける・・・。「そこには、魂の過ぎ去りゆく要素と関わらない体験が存在している」ということに気づくとき、私たちは魂のなかの持続する要素を観察することができるようになります。・・・私たちが注目しなくてはならないのは、「魂の過ぎ去りゆく要素と関わらない体験のなかには、魂のなかで生きているにもかかわらず、過ぎ去りゆく知覚のプロセスとは無関係な、真理と結びついた事柄が含まれている」という事実なのです。魂は、体と霊の中間に位置することによって、現在存在するものと持続し続けるもののあいだに存在しています。また魂は、現在存在するものと持続し続けるものを仲介する役割もはたしています。魂は現在存在しているものを保持することによって記憶を生じさせ、そのことによって現在存在しているものを過ぎ去りゆく性質から引き離し、魂のなかの霊的な要素に含まれている、持続する性質のなかに引き入れます。・・・魂は、みずからさまざまな事柄を決定し、行動をとおして魂の本質をこのような事柄のなかに組み込むことによって、地上的な時間のなかに置かれている過ぎ去りゆくものに、持続する性質を刻みつけます。魂は記憶をとおして過去を保持します。魂は行動をとおして未来を準備します。
・・・外界から印象を受け取ったあとも消え去ることなく、魂によって保持されるものは、外界の印象から独立して、ふたたび表象/Vorstellung となります。このような能力をとおして、魂は外界をみずからの内面的な世界に移し変えます。魂は記憶することによって(あとで思い出すときのために)内面的な世界を保持し、受け取った印象から自由になった、自分自身の生活を営みます。このようにして魂は、外界の過ぎ去りゆく印象の持続的な作用を含む生活を営みます。
そして行動も、外界に刻みつけられることによって持続的なものになります。たとえば私が木から枝を切り取ると、私が魂によって駆り立てられてこのような行動を取ったことによって、外界の出来事の経過を完全に変えてしまうような事柄が生じたことになります。もし私が行為をとおして外界を変化させなかったら、木の枝にはまったく別の事柄が生じたはずです。私は、私が存在していなければ起こりえなかった、一連の作用を生み出したのです。私が今日行ったことの作用は、明日も持続します。記憶することをとおして昨日の私の印象が私の魂のなかで持続し続けるように、私が今日行った行為の作用は、その後もずっと持続し続けるのです。
・・・人間の「自我」は、印象から生じる記憶と結びついているだけではなく、人間の行為をとおして世界のなかで引き起こされる変化とも結びついているのです。・・・ここで考察している事柄についてよく考えてみるとき、私たちは次のような思考に到達します。すなわち外界のなかに誘因が生じるときには、記憶のなかに保持されている印象がふたたびよみがえってくるだけではなく、さらに過去に行われた行為の結果が(この結果には、「自我」をとおして行為の本質が刻印されています)自我にふたたび近づこうとするのです。記憶のなかに保持されている事柄は、このような誘因がやってくるのを待ち受けています。誘因が与えられると記憶が内面から湧き上がってきて魂のほうに近づいてくるのと同じように、外界のなかで自我の性格を刻印されているものは、外から人間の魂に近づくための誘因が生じるのを待ち受けています。・・・”(ルドルフ・シュタイナー『テオゾフィー 神智学』松浦賢訳 柏書房 p. 57~60 ~ 霊の再受肉と運命(輪廻転生とカルマ)~)
140 最後の第八の魂の状態において、神秘学の学徒はときどき自己の内面に目を向けなくてはなりません。学徒は自分自身のなかに沈潜したり、自分が知っている事柄について思考したり、自分の義務についてよく考えたり、さらには、人生の内容と目標について熟考したりしなくてはなりません。
*私見・・・外界にばかり目を向け続けることによって、おそらく、わたしの個体性/自我意識が、希薄になってくるのだ。内面/魂が、外なる事象を映し出すだけの鏡のようになる。魂から、Ich/わたし らしさが失われる。だから、純粋思考に浸透している/充満している意志の要素を、ことあるごとに思い返さなければならない。そこには、勇気と誇らしさの香気が漂っているのだ。
140,141 ・・・このような訓練をすることによって、16弁の蓮華はますます完全なものになります。なぜなら私たちの霊視能力の育成は、このような訓練によって影響を受けるからです。たとえば私たちが考えたり、語ったりする事柄が外界の事象と一致すればするほど、霊視能力はいっそう早く発達します。真実でないことを考えたり、語ったりすると、私たちは16弁の蓮華のつぼみの一部を殺すことになります。このような観点から見て、誠実さや率直さや正直さは建設的な力として作用し、嘘や誤謬や不正直な態度は破壊的な力として作用します。神秘学の学徒は、ここでは「よい意図」だけではなく現実の行為そのものが重要な意味をもっている、ということを知っていなくてはなりません。たとえ自分ではよい意図を抱いているつもりでいても、現実と一致しない事柄について考えたり、語ったりすると、学徒はみずからの霊的な感覚器官の何かを破壊することになります。・・・
141,142 ・・・先に述べたような八つの魂の状態に注意をはらわなくてはならないうちは、まだ私たちは成熟しているとはいえません。私たちが、ふだん習慣に従って生活しているのと同じように、先に述べたような方法で生活できるようになったとき、ようやく霊視能力の最初の兆候が現れるのです。霊視能力が現れるときには、すでにこのような魂の状態は、苦労を伴うことのない、ごくあたりまえの生き方になっていなくてはならないのです。そのときには、私たちは、このような生き方をするようにたえず観察したり、自分をせきたてたりしなくてすむような境地に達していなくてはなりません。すべては習慣にならなくてはならないのです。
142 蓮華をゆがめられた形で育成すると、ある種の霊視能力が現れる場合に、幻覚や空想的なイメージが現れるだけではなく、日常生活においても、誤謬や不安定な状態が生じるようになります。このような誤った訓練に手を染める人は、以前はそのような性質はまったく見られなかったのに、臆病になったり、嫉妬深くなったり、うぬぼれが強くなったり、人に対していばるようになったり、わがままになったりすることがあります。
142,143 ・・・誤った訓練に手を染めると、過去に発達した八枚の花弁だけが容易に姿を現し、新しく育成しなければならない八枚の花弁は成長しないままになります。このような事態は、とくに訓練に取り組むにあたって、論理的で理性的な思考を軽視しすぎる場合に生じます。神秘学の学徒が思慮深い人間であること、明晰な思考を尊重する人間であることが、ほかの何にもまして重要な意味をもっています。また、言葉を話すときには、可能な限り明晰さを保つように努めることが大切です。超感覚的なものを感じ始めると、学徒は超感覚的な事柄について、つい人に喋りたくなりますが、人に話すことによって、学徒自身の正しい成長は妨げられてしまいます。超感覚的な事柄に関してはできるだけ人に話さないようにすればするほど、訓練はよい方向に進みます。ある程度まで明晰な思考を身につけてから、ようやく学徒は超感覚的な事柄について人に話すことが許されるのです。
*私見・・・「誤った訓練」は、アーリマン/ルシファーに由来する。これは、純粋思考によらず、イメージに依存したものである。私たちが、自らの魂の内で純粋思考を働かせることを回避すると、必ずイメージの罠にはまることになる。これは不可避である。なぜなら、魂の空間には、イメージ以外のものはないからである。そして、イメージに執着/依存するようになると、私たちは例外なく、センチメンタリズムに入り込む。その先鋭化に没頭するようになり、いわゆる人気取り/ポピュリズムの世界に至る。他者と競争したり、他者を扇動したりし始める。エゴイスティックなパワーゲームの世界である。差別と搾取(さくしゅ)の世界である。「超感覚的なものを感じ始めると」、人は自分に他の人間にはない力を得たと感じるようになるものなので、「超感覚的な事柄について、つい人に喋りたく」なるのだ。虚栄と虚飾の神、ルシファーの誘惑である。だが、「人に話すことによって、学徒自身の正しい成長は妨げられて」しまう。まさしく地獄落ちである。
私たちの成すべき訓練は、イメージ(感性的イメージ、身体性イメージ、文脈イメージ)への依存と執着を、純粋思考によって断ち切り、仮象であるイメージの世界を相対化/客体化/外化して、その幻想世界を脱することに主眼がある。仮象であるイメージの世界を脱すると、霊/思考体の世界が見え始めるのである。