霊/精神に、生命的な側面から近づくと、意志が現れる。
その意志が、かたち/体(たい)を持とうとするとき、その意志は思考に変容する。
そして、意志は思考体を獲得する。
さらに、思考体としての人間の自我は、この地上世界に生まれ、この地上を生きるあいだずっと、神々の思考体としての肉体/物質体を携えることになる。
肉体/物質体は、基本的に Es/それ/もの であるが、驚くべきことに、その由来は神々である。
そして、神々の思考体である肉体/物質体に働く純粋思考、その形姿と振る舞いを統べている神々の純粋思考と、人間自身の純粋思考とを共振させない限り、肉体/物質体は、人間にとって、謎であり続ける。
その場合、肉体/物質体は、独自の/神々の論理に従って、動き、振舞い、人間は神々の力によって、翻弄されるほかないのである。
いずれにしても、Es/それ の神秘の解明なしに、この地上の世界を、よく/wohl 生きることはできない。
だから私たち人間は、自らの力で思考を成すことによって、技芸/技術(art/Kunst)を生み出してきたという人類史の経緯がある。
さて、あらためて霊/精神と肉体/物質体を対置させてみたときに、その中間に、魂があることに注意を払わなければならないのである。
霊/Geist - 魂/Seele - 体/Leib である。
つまり、霊/Geist は、魂/Seele を媒介にして、体/Leib とつながるのである。
人間の純粋思考が、肉体/物質体に働きかけるために、魂の空間へと入ってゆくとき、その思考は純粋思考/霊的思考としての性格をどこまで維持できるのか。
そのとき人間の純粋思考は、魂のいわばアーリマン/ルシファー性の障壁に阻まれて(はばまれて)、容易には肉体/物質体(に働く神々の純粋思考)に到達することはできない。
人間の魂が、アーリマン/ルシファーによって浸潤されていることは、紛れもない事実、覆い隠しようのない現実であり、人間は、自らの魂の、この魔界的現実(まかいてきげんじつ)に向かい合わなければならない宿命である。
人間の魂という一種の魔界は、思考と似て非なるもので、充満している。隙間(すきま)なく満たされている。
イメージである。情念と感情に由来するイメージ、そして肉体/物質体由来の身体性イメージ、そして疑似思考、思考の影、死んだ思考と言うべき文脈イメージ/因習/ミームである。
これらの種々のイメージは、元をたどれば、どれも肉体/物質体から出てくるもの、さらに言えば、大地/自然から来るのである。
肉体/物質体が、大地/自然に起源をもち、Es/それ という本性において、同質であり、Es/それ が神々に由来することを思い起こさなければならない。
Es/それ には、神々の純粋思考が働いている。
人間の自我である Ich/わたし が、自らの成す純粋思考によって、Es/それ の内に働く神々の純粋思考と結びつこうとするとき、本来はその助けであるはずの魂のアーリマン/ルシファー性が、立ちはだかる。
人間の魂に蔓延る(はびこる)アーリマン/ルシファー性の正体は、イメージである。仮象である。
それは、感性イメージ、身体性イメージ、文脈イメージである。
人間は、これらのイメージさえあれば、もはや認識の営みの必要を感じなくなる、そういう傾向を強く持つ。
イメージの具体性/身体性に魅了され、その魔力に酔いしれるのだ。
酔いを醒ます思考は、邪魔になる。
イメージに囚われると、実相が見えなくなる。
実相に至るためには、純粋思考を成さねばならない。
実相とは、Es/それ に働く神々の純粋思考のことに他ならない。
つまり、Es/それ は、神々に由来し、人間にとっては、霊的外界/霊界に他ならないのである。
つまり、人間は、霊界の一員としての Ich/わたし を(再)発見するために、霊的外界/霊界としての Es/それ を必要とするのである。
人間 Ich/わたし は、霊的コミュニティを形成するために、Du/あなた を必要とし、全宇宙と和解/調和するために、Es/それ を必要とする。
このような視点に立つとき、人はイメージの囚われから、解放されるという希望を持つことができる。
囚われなく、イメージを活用する可能性を獲得する。
つまり、イメージの跋扈(ばっこ)する魂という魔境において、人間の自我が純粋思考を成し、人間の体に展開する神々の純粋思考と結びつく。
このとき、魔術的な力を発揮するイメージを、純粋思考が統べる。その絶妙なコントロールのあり方/マナー/作法を、技芸/技術(art/Kunst)と呼ぶのである。
・・・霊は 体の内に 生きる。