そこに イメージが ある 故に(ゆえに) 魂は 空間のように 見えるのだ。
そうだ、 見えるのだ。 それが イメージだから。
イメージだから 時間ではなくて 空間のように 見える。
イメージは 私たちの 感覚(素材)を 媒介(ばいかい)にして、
あたかも 実体のある 何ものかであるかのように、
私たちの 魂の 空間を ただよい、 立体的な 絵画のように 充満(じゅうまん)する。
仮象(かしょう)である。
イメージというものは 実相(じっそう)ではなく 仮象なのだ。
そして わたしたちは 日々 仮象であるイメージを 見ており、
実相に 見入ることは 通常 ついぞ ないのである。
そこに 空間のみが あり 時間は ないのだ ということに 気づくと、
幻想/思い込みの 半分が 消える。
本来の 時間は 魂の 空間には ない。
本来の 時間は そのアストラル空間にではなく、
エーテルの 領域(りょういき)にでも なく、
霊的に 成長する 私たちの 自我に 由来(ゆらい)するのである。
自我は 思考体であり 霊である。
その自我/思考体/霊が 魂の アストラル空間に 進入(しんにゅう)する。
それによって 魂の アストラル空間に 本来の 時間が 注入されることになる。
本来の 時間は 音のように 音響のように 音楽のように 魂の アストラル空間を 貫く(つらぬく)。
イメージは 感情に 由来する。
だから 魂の 空間は 感情から 成る と読み替えることが できる。
諸々の 感情が 種々の イメージの 姿で 私たちの 魂の 空間に 現れているのだ。
それらの イメージ以外の ところに 感情を 探しても 見つからない。
そして 見出した 個々の イメージ/感情に どんな 意味が あるのかと、
自問しても、 その答えが 見つかることはない。
なぜなら イメージ/感情に 意味など 無く、 他ならぬ イメージ/感情が ただ 浮き沈みしているだけなのだから。
意味とは 霊/思考である。
やがて 霊/思考/自我である 霊的時間が 響きながら 魂の アストラル空間の 中に 進入してくる。
~ 太陽と 月の 結婚。 霊と 魂の 統一(とういつ)/融和(ゆうわ)。 ロゴスによる アニマの 受胎(じゅたい)。
それまで くすんで さびしく 自らに 倦んで(うんで)いた 魂の アストラル空間が、 その景色が、
生命(いのち)を 得て(とりもどして) 喜び/愉悦(ゆえつ)/法悦(ほうえつ)に 輝く。
仮象が 意味を 獲得したのだ。
cf.1 ”知覚の 扉 澄みたれば、人の 眼に もの みな すべて 永遠の 実相を 顕(あら)わさん。(ウィリアム・ブレイク)”
cf.2 ”すべて 移ろい行くものは、 永遠なるものの 比喩にすぎず。 かつて 満たされざりしもの、 今ここに 満たさる。 名状すべからざるもの、 ここに 遂げられたり。 永遠にして 女性的なるもの、 われらを引きて 昇らしむ。(ゲーテ『ファウスト』)”
「移ろい行くもの」とは、比喩(ひゆ)/仮象であり、「永遠なるもの」とは、霊/思考体である。
だから、仮象/イメージ/比喩の領域である、私たちの魂のアストラル空間に、まさに聖霊/ロゴスとして、自我(高次の自我/霊的自我)/霊/思考体が、進入してくることにより、仮象/イメージ/比喩は、意味を獲得し、そこに、生命(いのち)/生命霊(せいめいれい)が、宿る(やどる)。
「名状すべからざるもの」、つまり、地上の言葉によっては表現できない事柄、太陽と月の結婚、 霊と魂の統一/融和、 ロゴスによるアニマの受胎が、成就する。
「永遠にして女性的なるもの」とは、ロゴス/霊による受胎を経て、霊的となったアニマ/魂、同時に、アニマと結びつくことによって、温もり(ぬくもり)を得たロゴス、このロゴス/アニマ(霊魂)が、人間(の自我)を成長させる ~ 「われらを引きて 昇らしむ」のである。
『ファウスト』の神秘の合唱は、そのように読める。
ブレイクは、同じ事柄を、「ものみなすべて永遠の実相を顕わさん」と表現した。
「知覚の扉澄みたれば」とは、人間の思考が、純粋思考に高まれば、と読める。純粋思考/霊的直観によって、すべての事物の霊的本質が、認識されるのである。霊的宇宙が、私たちの前に姿を現すのである。
ゲーテには、芸術(的)/宗教(的)ベクトルを、ブレイクからは、科学(的)/認識(的)ベクトルを、それぞれニュアンスとして感じるが、引用したテキストに示された彼らの思考の同質性/類似性は、芸術、宗教、科学、認識が、本来的には/もともとは、別のものではないことを示唆(しさ)している。
いずれも、思考の営みなのである。