思考の道をゆく -12- ~ 『神智学/Theosophie』を読む(2) | 大分アントロポゾフィー研究会

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以下、引き続き、

思考の道をゆく人にとって、またとない導きの書と言える、R・シュタイナーの『神智学』から、抜粋(ばっすい)していきたい。

*使用するテキストは、ルドルフ・シュタイナー『テオゾフィー 神智学』松浦賢訳 柏書房。ちなみに、この書には、「超感覚的な世界認識と人間の使命についての概説」と副題が付けられている。

*各抜粋の冒頭に、本書における該当(がいとう)する部分のページ番号を置く。

 

〇はじめに 1~8

3,4 ・・・超感覚的な事柄を観察する人は、すべての人間に向かって語りかけなければなりません。なぜならその人は、すべての人間に関わる事柄について語っているからです。またその人は、超感覚的な事柄を知らないかぎりは誰も言葉の真の意味において「人間」になることはできない、ということも知っています。その人は、自分が話すべき事柄にはさまざまな理解のレベルがある、ということを知っているからこそ、すべての人間に向けて語りかけるのです。その人は、「自分で霊的な探求ができるようになる瞬間からまだ遠くへだたったところにいる人びとも、私の話を理解することは可能である」ということを知っています。というのも、真理に対する感情と理解はすべての人間のなかに存在しているからです。その人は初めのうちは、すべての人間の健全な魂のなかで光を放つ、このような理解をよりどころとします。その人はまた、少しずつより高いレベルの認識へと導く力がこのような理解のなかに含まれている、ということも知っています。初めのうちは、このような話を聞く人は感情をとおして、自分に向かって語られる事柄をまったくとらえることができないかもしれませんが、実際には、この感情こそが「霊的な目」を開く魔法使いなのです。暗闇のなかで、この感情は目覚めます。人間の魂は何も見ることはできません。しかしこのような感情を媒介として、魂は真理の力によってとらえられます。それから真理は少しずつ魂のほうに近づき、魂の「高次の感覚」を開きます。そうなるまでには、短い時間しかかからない人もいれば、長い時間を必要とする人もいるでしょう。しかしいずれにしても、忍耐力とねばり強さを備えている人は、このような目標に到達することができるのです。

・・・すべての人の霊的な目を開かせることは可能・・・。霊的な目がいつ開かれるか、ということは時間の問題にすぎないのです。

 

*私見・・・「自分が話すべき事柄にはさまざまな理解のレベルがある」というのは、人間ひとりひとりの自我というものは、各々(おのおの)の人生をとおして(そして、輪廻転生とカルマによって)、成長していくもので、いわばそのそれぞれの自我の成長段階/成長の状態に応じて、霊的な事柄に対する理解の深さが異なってくる、という意味である。いずれにしても人間の自我というものは、高次の自我に向かって、成長してゆく。キリストの似姿(にすがた)としての高次の自我に向かって。そのキリストから、聖霊は来る。

「それから真理は少しずつ魂のほうに近づき、魂の「高次の感覚」を開きます。」というのは、まさに聖霊降臨に等しい。「真理に対する感情と理解はすべての人間のなかに存在している・・・すべての人間の健全な魂のなかで光を放つ、このような理解・・・」ここでは、感情と理解が、ほとんど一体のものとして語られていることに注意すべきである。そして、「健全な魂」とは何なのか、心に留めておくべきである。どのような人間においても、その魂のすべてが健全であるということはない。だれもが、多かれ少なかれ、病んでいる。多かれ少なかれ、その魂をアーリマン/ルシファーによって浸潤(しんじゅん)されている。だが、魂の全体が、アーリマン/ルシファーによって侵されて(おかされて)しまっているわけではあるまい。そのような部分的な健全のなかに、真理に対する感情と理解が光を放っているのである。

だから、私たちの魂の空間は、まさしくアーリマン/ルシファーと人間の高次の自我/霊/幼な子(おさなご)キリストの間で繰り広げられる戦いの場なのだ。幼な子キリストには、大天使ミカエルが仕える。思考の霊である。キリスト/意志に、ミカエル/思考が奉仕する。健全な魂は、アニマ/聖マリアである。聖霊由来の浄化された感情である。

ここに、思考と感情と意志とは、まさに再統一(さいとういつ)/再統合(さいとうごう)される。不調和が克服されるのである。このようにして、人間の自我は、高次の自我に向かって成長してゆく。

 

 

5 ・・・高次の認識を行う前にまず人間の認識能力が発達しなければならない・・・。認識能力を発達させる以前の段階において、認識の限界を超えたところに存在している事柄は、それぞれの人間のなかでまどろんでいる能力が目覚めたあとの段階では、完全に認識の領域の内部に存在することになるのです。

 

5,6 ・・・確かにここで述べているような事柄を発見するためには、特定の能力が必要となります。しかしひとたびこのような事柄が発見されると、それは言葉によって伝達されます。そうすれば、とらわれのない論理と、真理についての健全な感情を働かせようとするすべての人は、このような事柄を自分で理解することができるのです。本書では、多面的で、偏見によって濁らされていない思考と、大胆で自由な真理の感情を自分自身のなかで働かせるすべての人が、「私は、それをとおして人間の人生と世界の現象の謎に、十分に満足することができるような方法で近づいていくことができる」と感じるような事柄だけを述べることにします。ここで試しに、「この本で述べられている事柄が真実であるとしたら、人生に関して納得のいく説明をすることはできるだろうか」と問いかけてみて下さい。そうすれば、「それぞれの人間の人生そのものが、この本で述べられていることが真実であることの証明になる」ということがわかるはずです。

 

*私見・・・だれが「人生に関して納得のいく説明をする」のかと、ここでは問う必要がある。あなたが、あなたの人生に関して、あなた自身で、納得のいく説明をするのである。他ならぬ、あなたが、あなたの人生、つまりあなた自身を、あなたの魂を観察し、そしてあなたが自分で思考し、そうしてあなた自身があなた自身に対して説明するのである。このとき、あなたのなかには、「とらわれない論理」と、「真理についての健全な感情」が働いている。「多面的で、偏見によって濁らされていない思考」(これはほとんど純粋思考と言っているに等しい)と「大胆で自由な真理の感情」(これはほとんど直観思考と言っているに等しい)が、働いているはずだ。直観思考は、純粋思考のもうひとつの顔である。別のものではない。無媒介(むばいかい)に、霊/思考(体)をとらえる。そして、「人間の人生と世界の謎に、十分に満足することができるような方法で近づいていくことができる」のである。そして、「それぞれの人間の人生そのもの」が、「この本で述べられていること」と、まさに重なることが、確認できる、というわけである。この本の内容は、シュタイナーの純粋思考が観察し、とらえた人間の人生と世界の実相(じっそう)に他ならないのである。シュタイナーは、彼が成したのと同質の純粋思考を、あなたも成すようにと要請している、このことを真剣に受けとめなければならない。

 

6~8 ・・・実際にはすべての現実は(つまり低次の現実と高次の霊的な現実は)根底にある一つの同じ本質が備えている二つの側面にすぎないので、低次の認識において無知な人は、たいていは高次の事柄においても無知なままにとどまることになります。このような事実を認識するとき、存在の霊的な領域について語らなければならないという衝動を、霊的な使命をとおして感じる人間は、はかりしれないほど大きな責任の感情を抱きます。このような事実を知ることによって、その人間は、謙虚で控えめな態度を取らなければならなくなります。しかしその一方で、このような事実を知ったからといって、どのような人も(通常の生活において一般的な学問を学ぶきっかけを与えられていない人も)、高次の真理と取り組むのを諦めるべきではありません。なぜなら人間は、植物学や動物学や数学などの学問に関して、ある事柄を理解していないとしても、人間としての自己の使命をはたすことはできるからです。人間はある一定の方法で、超感覚的な事柄について知ることをとおして明らかにされる、人間の本質と使命に近づかないかぎりは、言葉の完全な意味において「人間」になることはできないのです。

人間が見上げることができる最高の存在を、人間は「神的なもの」と呼びます。そして人間は、何らかの方法でこのような神的なものとつながる、という観点から、自分自身の最高の使命を考えなくてはなりません。そのため、自己の本質と使命を人間に対して明らかにする、感覚的なものを超越した知恵を「神的な知恵」すなわちテオゾフィー Theosophie(神智学)と呼ぶことができます。また、人間の人生と宇宙における霊的な事象に関する考察には霊学という名称を与えることができます。本書の記述に見られるように、霊学のなかから、とくに人間の霊的な存在の核に関わる成果を取り出す場合には、このような領域に関して「テオゾフィー(神智学)」という表現をもちいることができます。・・・

私たちは本書を読むことによって、本書の最後に述べられている「認識の小道」に足を踏み入れる決心をした、すべての人に対して開かれる体験と関わりあうことになります。私たちは健全な思考と感覚をとおして、高次の世界から流れ込んでくる、真の認識に関わるすべての事柄を理解することができます。またこのような理解から出発し、それとともにしっかりとした土台を築くとき(霊的な直観ができるようになるためには、さらに別のことがつけ加えられなくてはならないとしても)、私たちは自分自身で直観できるようになるための重大な一歩を踏み出したことになります。これらの前提に立つとき、私たちは正しい方法で超感覚的な事柄と向きあうのです。・・・将来自分で直観することができるようになる事柄を、まず初めに健全な思考をとおして理解しようとするとき、私たちの直観は促進されます。このような態度を貫くことによって、「霊視者の直観 Schauen des Sehers」を生み出す魂の重要な力が私たちのなかに呼び起こされるのです。

 

*私見・・・「すべての現実は(つまり低次の現実と高次の霊的な現実は)根底にある一つの同じ本質が備えている二つの側面にすぎない」という場合の「一つの同じ本質」とは、霊/精神に他ならない。その霊が、この地上の世界へと展開して、低次の現実を生み出している。自然科学に代表される学問は、思考によって低次の現実を認識しようとする営みであり、いずれにしても、その認識原理の根幹に思考がある。だから、シュタイナーがここで、「低次の認識において無知な人」と表現しているのは、「思考(しようと)しない人」という意味合いでとらえるべきである。もちろん、自然科学に代表される学問が、低次の現実を認識しようとする際に成す思考は、そのままでは純粋思考とは言えない。つまり、そもそも「思考しようとしない人」がいる一方で、低次の現実に思考によって取り組んでいる人も、いまだ純粋思考には至っていない。霊界の前に、いわば大きな帳(とばり)/ヴェールがおりているのである。だから、「存在の霊的な領域について語らなければならないという衝動を、霊的な使命をとおして感じる人間は、はかりしれないほど大きな責任の感情を」抱かざるを得ないのである。

しかし、一人の人間にできることは限られている。神とは異なり、人間は万能ではない。寿命も限られている。霊と霊界のすべてを、今生において、すべて知ることなどできない。この地上の世界に生きる人間は、いずれにしても、鉱物界の三次元時空の制約の支配下にあらざるを得ない。だから、当然、「謙虚で控えめな態度を取らなければならなく」なる。・・・(しかし、わたしたちは、純粋思考を成すことによって、三次元時空の外に出る。そこはすでに霊たちの世界であり、そこでわたしたちは、思考存在としての他者/霊的存在に出会うことになるのである。)これが、人間の「最高の使命」である。