だれが そのように 呼びかけるのか。
あなたに そう 呼びかけ続ける者は だれなのか。
それは あなたの 中の わたしだ。
あなたは わたしのことを わたしとしか 呼べない。
なぜなら あなたは わたしで わたしは あなたの 中に いつも いるのだから。
「それ」に関わる問題のすべての根源に、自我の未熟さがある。
たしかに自我というものは、輪廻転生(りんねてんしょう)とカルマを介して、成長してゆくのだが、日々の生活において、純粋思考を成し、霊を見出していくことなしに、ただすべてをカルマに委ねる(ゆだねる)という、無責任でひとまかせな姿勢でよいわけがない。
それでは、まったく怠惰(たいだ)であるとしか言いようがない。
そのようにして、いかに自分が自分の問題に勇気をもって向き合わず、自分の生活の大部分を他者に依存しきっているか、そのような横着(おうちゃく)を、いつまで続ける気なのか。
未熟な自我は、常に他者に依存する。
未熟な自我同士の関係は、共依存(きょういぞん)になりやすい。
お互いが、一種のマインドコントロール状態に安住し、そこから抜け出すことは至難の業(しなんのわざ)である。
この桎梏(しっこく)を打ち破ることができるのは、純粋思考を成し得る他者ということになるが、そのような人物が一体どこにいるというのだろう。
たしかに、運命の巡り合わせ/カルマの導きによって、出会いがあるかもしれない。
だが、それを期待して(占いか何かのように)、何の努力もしないでよいとは思えない。
そもそも、未熟な自我というものには、自覚(じかく)がないものなのだ。
だから、「それ」の外に出ることなど、望んでいない。
アーリマン/ルシファー幻想/迷宮の内部で、右往左往(うおうさおう)する自分に酔っているふしもある。
いつまでも自惚れ(うぬぼれ)と、ひとりよがりの感傷(かんしょう)に浸っていたいようだ。
だが、この地上の人生というものは、鉱物界の三次元時空の法則に従って、いわば変転し、流れてゆく。
”行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。”(鴨長明『方丈記』)
しかも、カルマは、個人の自我の成長を促すように働くので、例えば、共依存状態にある日常生活にも、いつか必ず変化/ターニング・ポイントが、やって来る。
何らかの出来事が、必ず起こる。
望んでもいないときに、望んでもいないことが起こる可能性が高い。
しかし、それはいずれにしても、チャンスなのだ。この機会を逃さないようにすべきだ。
”「・・・だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」”(「マタイによる福音書」第24章)
もちろん、ここで「目を覚ましている」とは、物理的に寝ずにいるということではない。
日々の生活のなかで、人間関係のなかで、何か問題が生じたときに、それに勇気をもって対峙(たいじ)し、自分の問題として、自分で考えること。すぐに他の人に頼ったり(電話する、メールする、LINEする、etc.)、見て見ぬふりをしたり、自分の都合のいいように、その場しのぎの勝手な解釈をしたりせずに、直面している問題の正体(!)を、自分の思考の力をふりしぼって、つかみ取ろうとし続けること。
それが、「用意する」という言葉で意味されていることである。
「人の子」つまり、キリスト/高次の自我は、低次の自我/未熟な自我が、思いもかけぬ時に、現われるのだ。
どのような姿で現れるかということも、未熟な自我の側(がわ)からは、想像もできないのである。
だが、あなたは、その人のおとずれを、まさに霊的(れいてき)に、期待してよい。
そのひとが そのように いうのだから。
・・・だから 目を 覚ましていなさい。
・・・だから あなたがたも 用意していなさい。
わたしは 来る ・・・思いがけない時(とき)に。