思考の道をゆく -11- ~ 『神智学/Theosophie』を読む(1) | 大分アントロポゾフィー研究会

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以下、

思考の道をゆく人にとって、またとない導きの書と言える、R・シュタイナーの『神智学』から、抜粋(ばっすい)していきたい。

*使用するテキストは、ルドルフ・シュタイナー『テオゾフィー 神智学』松浦賢訳 柏書房。ちなみに、この書には、「超感覚的な世界認識と人間の使命についての概説」と副題が付けられている。

*各抜粋の冒頭に、本書における該当(がいとう)する部分のページ番号を置く。

 

〇第三版に寄せる序文(1910年) ⅩⅡ~ⅩⅧ

ⅩⅢ,ⅩⅣ 本書の筆者は、このような領域における経験そのものをとおして証拠を示すことができないような内容については、記述することはありません。このような考え方に沿って、筆者は自分で体験した事柄だけを本書のなかに記述することにします。

本書は現代人の習慣的な読書方法に従って読むことはできません。ある意味において、本書をお読みになる方はそれぞれのページや、いくつかの文章に含まれている事柄を、自分で努力して身につけなくてはなりません。本書をお読みになる方は意識的に、このような読み方をするように努める必要があります。なぜならそうすることによってのみ、本書は、読む人の前に本来あるべき姿を現すからです。ただ通読するだけでは、本当の意味で本書を読むことはできません。読む人は本書の真理を体験しなくてはなりません。霊学はこのような意味においてのみ、価値をもつのです。

 

ⅩⅥ ・・・現代という時代は超感覚的な認識を必要としています。なぜなら私たちが通常の形で世界と人生について経験するあらゆる事柄は、多くの疑問を私たちのなかに呼び起こしますが、このような疑問には超感覚的な真理によってのみ答えを出すことができるからです。私たちは次のような事実を正しくとらえなくてはなりません。すなわち現代の精神的な潮流の内部において、より深く感じる魂の持ち主にとっては、存在の基盤について学ぶことは世界と人生の大きな謎に対する答えではなく、むしろ問いかけになるのです。・・・人間の魂が、本当の意味で自分自身を理解するために足を踏み入れなくてはならない深みへとわけ入っていくときには、最初は答えであると思っていた事柄が、実は真の問いかけをするためのうながしであることが明らかとなるのです。このような問いかけに対する答えは、人間の好奇心だけを満足させるようなものであってはなりません。人間の魂的な生活 Seelenleben が内面的に安らかで完結したものになるかどうかは、このような問いかけにどのような答えを出すかにかかっているのです。このような答えを努力して手に入れることによって、知への衝動が満たされるだけではなく、人間は仕事において有能になり、人生の課題に対処することができるようになります。もしこのような問題の答えが見出されないならば、人間は魂的な意味において(最終的には体的な意味においても)萎えてしまうことになります。超感覚的なものの認識は単なる理論的な欲求のためにではなく、本当の意味における人生の実践のために存在しています。・・・

 

ⅩⅧ ・・・自分自身のものの考え方に含まれている証明以外は認めようとしない人が、どんなに議論しても、実りがもたらされることはありません。「証明」の本当の意味を知っている人は、人間の魂は議論とは別の方法によって真理を見出すことができる、ということをはっきりと認識しているのです。

 

〇はじめに 1~

2,3 健全に形成された目を備えている人が、自分が色彩をイメージしていることをはっきりと感じることができるのと同じように、隠された知恵をいくらかでも身につけた人は、自分が隠された知恵を抱いていることを実感します。ですからその人にとっては、このような「隠された知恵」が存在するということは「証明」を必要としません。またその人は、自分と同じように「高次の感覚」が開かれた人間に対しては隠された知恵を証明する必要はない、ということも知っています。・・・

 

3,4 ・・・その人(超感覚的な事柄を観察する人)は、超感覚的な事柄を知らないかぎりは誰も言葉の真の意味において「人間」になることはできない、ということも知っています。その人は、自分が話すべき事柄にはさまざまな理解のレベルがある、ということをよく知っているからこそ、すべての人間に向けて語りかけるのです。その人は、「自分で霊的な探求ができるようになる瞬間からまだ遠くへだたったところにいる人びとも、わたしの話を理解することは可能である」ということを知っています。というのも、真理に対する感情と理解はすべての人間のなかに存在しているからです。その人は初めのうちは、すべての人間の健全な魂のなかで光を放つ、このような理解をよりどころとします。その人はまた、少しずつより高いレベルの認識へと導く力がこのような理解のなかに含まれている、ということも知っています。初めのうちは、このような話を聞く人は感情をとおして、自分に向かって語られる事柄をまったくとらえることができないかもしれませんが、実際には、この感情こそが「霊的な目」を開く魔法使いなのです。暗闇のなかで、この感情は目覚めます。人間の魂は何も見ることはできません。しかしこのような感情を媒介として、魂は真理の力によってとらえられます。それから真理は少しずつ魂のほうに近づき、魂の「高次の感覚」を開きます。そうなるまでには、短い時間しかかからない人もいれば、長い時間を必要とする人もいるでしょう。しかしいずれにしても忍耐力とねばり強さを備えている人は、このような目標に到達することができるのです。

・・・すべての人の霊的な目を開かせることは可能・・・霊的な目がいつ開かれるか、ということは時間の問題にすぎないのです。

 

*私見・・・ここでシュタイナーが「感情」について言及しているが、ここでいう「感情」は、対象に対する強い興味/関心とそれと同時に生じる直観であると、私は理解する。例えば、アンリ・ファーブルや南方熊楠は、おそらく幼少期から、そのような「感情」を並外れて持っていたにちがいない。「真理に対する感情と理解」を、そのような意味合いでとらえておくとわかりやすいと思う。いずれにしても、この力は、強烈な共感に由来するもので、他ならぬ愛/アガペーと同質なのである。

私はこのとき、シュタイナーが同時期に著した別の本の次の部分を、思い出した。

 

”まず最初に私たちが身につけなくてならないのは、魂のある種の基本的な気分です。霊的な探求をする人びとは、この基本的な気分を尊敬の道 Pfad der Verehrung と呼んでいます。この場合、尊敬という言葉は、真理と認識に対する恭順の気持ちを表しています。神秘学の学徒になることができるのは、このような基本的な心的態度を備えている人だけです。霊的な事柄い関する領域において経験を積んでいる人は、のちに神秘学の学徒となる人間が子どもの頃にどのような素質を備えているか、ということをよく知っています。

神聖な畏敬の念を抱きながら、尊敬する人物のほうを見上げる子どもがいます。子どもは、このような人物に畏敬の念を抱いています。子どもは畏敬の念を抱くことをとおして、心の底のもっとも奥深い部分において、批判したり、反対したりするような考えを抱かなくなります。その子どもは成長して、やがて少年や少女になります。この少年や少女は、尊敬できる対象のほうを見上げることができるときに、喜びを覚えます。このような子どもたちのなかから、将来の神秘学の学徒が多く育っていきます。

たとえばあなたは、誰か尊敬する人物を初めて訪問するとき、その人のドアの前に立った体験はありませんか。あなたは、あなたにとっての聖域である部屋に入るために、ドアのノブを回したとき、神聖な畏敬の念を抱きませんでしたか。このときあなたのなかに生まれた感情こそが、これから先、神秘学の学徒となるために必要なものの萌芽なのです。

・・・子どもが人を敬う気持ちは、もっとあとになってから、真理や認識に対する尊敬の感情へと成長します。ふさわしい時期に尊敬の感情を育てることを学んだ人は、本当の意味で自由にふるまうとはどういうことなのか、ということも、よく理解できるようになります。尊敬の感情が心の底から自然に湧き上がってくるならば、いつでも、それは正しいものなのです。

自分よりも高いレベルの存在がいる、という深い感情を発達させない限りは、私たちは、高みをめざして上昇するのに必要な力を自分自身のなかに見出すことはできません。秘儀参入者は、畏敬と恭順の気持ちを心情のなかに深く受け入れることによって、認識の高みを仰ぎ見るための力を身につけたのです。私たちは恭順という門を通過することによって、初めて霊の高みに昇ることができます。知恵を敬うことを学んだとき、あなたはようやく本当の知恵にたどりつくのです。

・・・すでにのべたように、献身的な畏敬の念は高次の認識へと到る魂の力を育ててくれます。一方、批判的な態度や断定的な判断は、畏敬の念に匹敵するくらい強い力で高次の認識へと向かう魂の力を消し去ります。

・・・高次の認識を探求する人は、尊敬や畏敬などの感情を自分自身のなかに生み出さなくてはなりません。高次の認識を求める人は、自分でこのような感情を魂のなかに吹き込むのです。このことは、学問的な研究をとおして実現されるものではありません。それは人生そのものをとおしてのみ、成し遂げられるのです。”(ルドルフ・シュタイナー『いかにして高次の世界を認識するか』松浦賢訳 柏書房 p.7~11)