思考は、誤解されている。
人間は、他ならぬ思考存在であるのに、思考のことがわかっていない。
人間の営みが、他ならぬ思考であるのに、人はその現実を直視(ちょくし)しようとしない。
そして人は、自らの生(せい)/生活を見失って、アーリマン/ルシファーの幻想へ、イメージ体へと退却(たいきゃく)する。まるで、繭(まゆ)/コクーン/cocoon の中に、もぐりこむように。
1 思考と純粋思考とは、本来、同一である。
1-1 思考と言葉とは、もともとは、同一であった。その場合の言葉は、ロゴスと呼ばれる。
1-2 言葉は、だが、やがて思考から離れ、それとともに、思考の影、リアリティの影、仮象(かしょう)へと姿を変える。そのような言葉は、もはやロゴスとは呼べない。
1-2-1 だから、人が、もはや現実の影に過ぎない言葉に執着すると、まともに思考することが難しくなる。彼の思考は、影のような思考、死んだ思考となり、思考というものが本来的に持つ有機性(ゆうきせい)と生命/自律性(じりつせい)を、もはや持たない。
1-2-2 死んだ思考は、三次元の時空に縛られ(しばられ)、地上性(ちじょうせい)を脱することができない。死んだ思考は、霊/精神には至らない。
1-3 純粋思考のみが、霊/精神に至る。
2 人間の魂において、意志は、いまだ本来の姿を見せておらず、人は感情のおもむくまま、振舞って(ふるまって)いる。
2-1 思考を発動させるのは、意志である。そして、思考の過程を経て、新たに意志が生み出される。
2-1-1 この思考の過程において、感情がなんらかの役割を演じる必要は、本来ない。思考に曖昧なところやリアリティにそぐわない部分があると、人はセンチメンタリズムに陥る(おちいる)。
2-1-2 このセンチメンタリズムからは、生命/いのちのある有機的な意志は、生まれない。霊に満ちた意志は生まれない。なぜならば、その領域を支配する者は、非霊(ひれい)の霊であるアーリマン/ルシファーだから。そこでは、霊/思考/思考体は死に、イメージ体が蔓延る(はびこる)。
2-2 霊に満ちた意志の本質は、自我に他ならない。自我が、思考の担い手である。だから、この場合、自我に意志があり、同時に思考があるという霊的状態が生み出される。そして、このとき、霊的愉悦(ゆえつ)という感情が、あたかも純粋思考の営みを経た副産物(ふくさんぶつ)のように、生まれてくる。霊的な喜び、至福(しふく)/benediction である。死んだように光を失っていた人間の魂が、甦る(よみがえる)。
2-2-1 それまでは、感情も、いわば死んでいるに等しかったのだ。どんなに恰好(かっこう)をつけていようと、死んだ感情と共にある魂の状態は、やはり虚無主義/ニヒリズムと呼ぶべきである。「いやあ、ニヒルだねえ♡」などと、ほめてはいけないのである。彼は無自覚(むじかく)に自暴自棄(じぼうじき)で、実のところ何をやらかすか、わかったものではないから。魂を〇〇に売ったような状態(にあと一歩)なのだ。
2-2-2 今、多くの人が(人類の大部分の人間たちが)、自らの魂の空虚感(くうきょかん)に退屈したり、ビビりあがったり、極度の不安に駆られたりして、自らの魂にぽっかりと口を開けた穴(あな)/空虚感を埋めるために、ものとしての他者/「それ」への依存度を高めている。「それ」の正体(しょうたい)は、文脈イメージ/イメージ体という疑似思考(ぎじしこう)である。
2-2-3 文脈イメージ/イメージ体である「それ」/ものとしての他者は、複製可能で、いつでも取り換えがきく。ニヒリストの彼から、あなたがいくら頼られ/依存されていようと、彼には本当のあなたの姿は見えていないから(彼が見ているのは、文脈イメージ/イメージ体/「それ」としてのあなたの影である)、いずれあなたは彼に捨てられる。もともと、彼とあなたの間に、本当の(霊的な)つながり/結びつきなど、なかったのだから。そして間もなく彼は、あなた以外の新しい依存対象を見つけるのである。彼の内なる文脈イメージ/イメージ体にかなった「それ」のコピー/複製を。そして彼は、ひととき、その「それ」のコピー/複製との依存関係に安住する。そしてまたもや、不全感(ふぜんかん)と虚しさ(むなしさ)が募って(つのって)くる。彼は、新しい依存関係に飽き始める。そして、・・・そうした一時しのぎ/その場しのぎが、性懲り(しょうこり)もなく、悪びれもせず、ぬけぬけと繰り返される。
2-3 ”さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。
「貧しい人々は、幸いである、
神の国はあなたがたのものである。
今飢えている人々は、幸いである、
あなたがたは満たされる。
今泣いている人々は、幸いである、
あなたがたは笑うようになる。・・・」”(「ルカによる福音書」第6章)
2-3-1 「貧しい人々」とは、彼らの自我がまだ霊的に成長していないことを意味する。今はまだ未熟な彼らの自我は、時を経てやがて成長し、霊/精神へと至る。だから、神の国/霊界/精神界は、彼ら「貧しい人々」のものだと、イエスは言う。神の国が、彼らを待っているのである。
2-3-2 「今飢えている人々」とは、霊/精神を求めて、いまだそれを得られていない彼らのことである。霊/精神の、いわば飢餓状態(きがじょうたい)にある、生きるか死ぬかの状態にある、ということ。極限状態(きょくげんじょうたい)と言ってもよい。さて、そのような状態に直面した人間に、何が起こるか。・・・イエスは、「あなたがたは満たされる。」と言う。・・・生死の際(きわ)、いわば極限状況に直面することにより、彼らの思考が通常にはないほど強化される。それによって、彼らの魂は強くなる。簡単にはあきらめなくなる。そして、やがて彼らは、霊/精神に出会うのだ。聖霊降臨(せいれいこうりん)である。
2-3-3 「今泣いている人々」とは、何らかの出来事や境遇(きょうぐう)の中で、自分の無力を痛感して、立ちつくし、・・・それでも、「それ」としての他者に助けを求めてもいない、そのような人たち。無気力や虚無感に逃げる余裕もない人たちである。彼らには、他者に依存することが、一時しのぎ/その場しのぎにしかならないということが、その魂の根底において、了解されている。彼らの「わたし」は、やがて「あなた」に出会うことなるのである。そして、「笑うようになる」のである。
3 本来の思考、つまり純粋思考は、自律性/有機性/生命(いのち)を持つ。自ら成長するばかりか、新たな純粋思考をも生み出す。しかも、限りなく。
3-1 純粋思考は、地上の論理に縛られない。アーリマン/ルシファーの拘束(こうそく)から自由である。
3-1-1 通常の地上的自我は、そうした純粋思考の、いわば速さ/超越性(ちょうえつせい)、そして他者性(たしゃせい)についていくことはできない。その無限の多様性と豊穣(ほうじょう)の海に溺れる(おぼれる)/途方(とほう)に暮れる。だから、そうした、いわゆる危機的状況に立ち至った地上的自我は、いわば我(われ)を失い、通常の生活を送ることができなくなるのである。まさにそのとき、あなたは宇宙の霊的実相(れいてきじっそう)を目の当たり(まのあたり)にしているのだ。
3-1-2 このような、いわゆる霊的危機状況(れいてきききじょうきょう)/スピリチュアル・エマージェンシー/spiritual emergency が、起こってくることは必至であるから、・・・