思考の道をゆく -7- ~ 思考体との出会い | 大分アントロポゾフィー研究会

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今生(こんじょう)において、いつ、いかなる思考/思考体と出会うか/めぐり会うかは、徹底的にカルマ的である。

カルマが、思考体同士の出会いのすべてをつかさどる。

 

カルマが、「わたし」と「あなた」を出会わせる。

「わたし」は、わたしの高次の自我。「あなた」は、だれか他者の高次の自我。

いずれの高次の自我も、思考体である。霊/精神である。

 

わたしが、いつ、いかなる思考体に出会うか、また出会わないかということが、わたしのその後の人生を決定づける。

 

人は、この地上生において、さまざまな思考体とめぐり会うことによって、精神的な成長を促される(うながされる)。

いずれにしても、カルマの計らい(はからい)なので、やむを得ないことではあるけれども、思考体と出会う機会が乏しく、正しく思考する習慣を身につけられない場合、その人の人生は、霊的/精神的に貧しいものにならざるを得ない。

その人は、意志薄弱(はくじゃく)で、感傷的/感情的に生きる。

 

カルマ的であるということは、幾生(いくせい)にもわたって成長を遂げる高次の自我の霊的意志によって、霊的思考が発動し、なにか新しいものが生み出され、それが新しいカルマに織り込まれてゆく、ということを意味する。

そのように新しいものが生まれるためには、霊的他者/思考体との遭遇(そうぐう)/関係性の構築(こうちく)が、不可欠であり、むしろそのような霊的遭遇それ自体が、新しきなにものかに他ならないのである。

このような「わたし」と「あなた」の遭遇のことを、本来的には、「結婚」と呼ぶ。

 

”・・・私たちは自分にたずねてみる。-「お前はお前の生涯のこの時、あるいはあの時に何を行ったのか、何を語ったのか?」。そうすると人間の多くの行為は、その人間が年をとってからはじめて理解できるようになることがわかる。たとえばある人が七、八年前にあることをした、また、二十年前にあることを行ったとしよう。その人間がその時点でなぜその行為を行ったか、なぜそのように語ったかを現在自分で理解できるようになるまで、その人間の悟性は長い間待ち、成長しなければならなかった。-このような自己発見をしない人間がたくさんいるとすれば、それはその人たちが求めようとしないからである。・・・人間がこのような発見をする瞬間、魂は次のような気分を持ちはじめる。-人間は自己の本性の底深く働いているある善い力によって守られている。人間は本来、言葉の最高の意味において世界の中で一人きりではない。そして、人間が理解し、意識によって成しとげることは、結局のところ人間が世界の内でなしとげることのほんの一部分にしかすぎないという事実に対して、魂は次第に信頼の気持ちを持ちはじめる。”(ルドルフ・シュタイナー『個人と人類を導く霊の働き -人類発展史についての霊学による研究成果』浅田豊訳 村松書館 p.8,9)