新しきものよ、来たれ | 大分アントロポゾフィー研究会

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”細野(細野晴臣)がバッファロー・スプリングフィールドをはじめて聴いたのは、LPの収録曲をすべてオンエアするFENの番組-ちょうどそのころシングルの黄金期が終わり、時代はLPへと推移しつつあった-で、彼らの二枚目のアルバム『アゲイン』が特集されたときだ。細野は言う。

〈一時間番組なんだけど、最初は、なんかよくわからなかったんだ。なんとなく地味な感じで。だから何かやりながら聞き流してたんだけど、ところがずーっと後まで、なんともいえない印象が残っちゃうんだよね。/音楽自体が残ってるわけじゃないのね。そんなに覚えやすい曲じゃないし。ただ、なんか新しいものを聞いちゃったんじゃないかっていう気持ちが残って〉(『音楽王細野晴臣物語』)

・・・〈レコードを聴く快感ていうのは、なにかわからないものがあるから、なにかエタイのしれないものがあるから感じられるんだよ。それがあるからこそ、いつまでも聞いていられるんだ〉(同前)”(門間雄介『細野晴臣と彼らの時代』文藝春秋 P.61)

 

・・・予感や予兆のようなものを、あなたはきっと感じている。

「なにかわからないもの」「なにかエタイのしれないもの」が、訪れようとしている/現れようとしているのを感じる。

これまではなかった「なんか新しいもの」が、・・・それは霊/精神であり、あなたの高次の自我だ。

 

あなたは、自分で思考することを決してやめなかった。

思考こそが、霊/精神/高次の自我へと至る道なのだ。

だから、自らの思考を墓場へと追いやってはならない。

思考が死ねば、あなたは生きる力を失う。

情念と感情のゲーム、アーリマン/ルシファーは、あなたを消耗させる。

駆け引きと競争は、あなたから高貴さを奪う。霊/精神としての人間の個別性/一回性を奪う。

 

思考することをやめたとき、あなたは、アーリマン/ルシファーの迷宮に入り込む。

情念と感情のもつれあい。駆け引きと競争。依存と執着。支配と疎外。動物的衝動。暴力。群衆。・・・

 

”・・・意志と思考と感情を結びつける糸が繊細な体(アストラル体とエーテル体)のなかで解かれるようになると、私たちは「境域の小守護者」に出会います。そしてさらに物質体のさまざまな部分において(最初は脳において)も、意志と思考と感情の結びつきが解かれると、私たちは「境域の大守護者」に出会います。

・・・そして境域の守護者は自分が現れたことの意味を、ほぼ次のような言葉で語るのです。

  * *

あなた自身が見ることのできない力が、いままであなたを支配していました。・・・これらの力の影響を受けながら、あなたの性格が人生の経験や思考をもとに作り上げられていきました。さらにこれらの力は、あなたの運命を生み出しました。・・・これらの力はすべてを包み込むカルマの法則 Karmagesetz として、あなたを支配してきました。

しかしこれから先、これらの力は、いままであなたを制御してきたたずなの一部をゆるめます。これらの力があなたのために行ってきた仕事の一部を、今後は、あなたは自分で引き受けなくてはならないのです。

・・・あなたの性格のなかには、多くのすばらしい長所と、多くの醜悪な欠点があります。あなたはこのような長所と欠点を、過去の体験や思考をとおして、自分で生み出したのです。・・・カルマ的な力は、あなたが過去の人生で行った行為や、あなたのもっとも深い部分に隠された思考や感情を見抜いていました。そしてそれにおうじて、カルマ的な力は、いまあなたがどのような存在として、どのように生きるか、ということを決定したのです。

しかしいま、過去の受肉状態のよい面と悪い面は、すべてあなたの前に姿を現わさなくてはなりません。・・・

いま、あなたのよい面と悪い面はあなたから離れて、あなたの人格の外に出ます。それらは独立した姿を現します。・・・

・・・私という存在は、あなたの崇高な行為や悪い行為をもとに、私自身の体を形成しました。幽霊のような私の姿は、あなた自身の人生のカルマ的な出納帳をもとに作り上げられました。いままであなたは、私を見ることができませんでしたが、あなた自身のなかにはいつも私がいました。それは、あなたのためにはよいことでした。いままで、あなたには隠されていた運命の知恵は、私の姿のなかの醜い欠点を消すように作用してきました。しかし私があなたの外に出たいま、この隠された知恵もあなたのもとを去りました。これから先は、隠された知恵は、もうあなたの世話を焼いてはくれません。隠された知恵は、いままで自分がしてきた仕事をあなた一人の手にゆだねます。もし私が破滅してはならないのだとしたら、私は完全で壮麗な存在にならなくてはなりません。もし私が破滅してしまうと、私はあなたをもいっしょに暗い奈落の底に引きずり込むことになるでしょう。

そのようなことが起こらないようにするためには、あなた自身の知恵が、あなたのもとを去った隠された知恵の仕事を引き継ぐことができるぐらい、偉大なものにならなくてはなりません。

ひとたびあなたが、私が守っている境域を越えると、私は目に見える姿で現れ、その後は一瞬たりとも、あなたのそばを離れることはありません。今後不正なことを行ったり、考えたりするたびに、あなたは、私の姿が悪魔的に醜くゆがむのを見て、すぐに自分自身の罪に気づくことになるでしょう。あなたが過去の過ちをすべて償い、それ以上悪いことがまったくできなくなるまで自分自身を浄化したら、ようやく私の存在は輝くような美しい姿に変わります。そのとき私は、あなたの未来の活動を祝福しながら、ふたたびあなたと一体化し、あなたとともに一つの存在となることでしょう。

あなたのなかに残っている恐れの感情や、すべての行為や思考に対する責任を完全に引き受ける力は自分にはないのではないか、という不安感をとおして、あなたは私の境域と出会います。あなたが自分自身でみずからの運命を導くことに恐れを感じているあいだは、この境域には必要な部分が欠けていることになります。そして境域を構成する要素が一つでも不完全であるうちは、あなたは呪縛されたようにこの境域で立ち止まったり、つまづいたりします。ですからあなたが恐怖から完全に解放され、最高度の責任を自分で引き受ける心がまえができるまでは、この境域を越えようとしてはなりません。

・・・

私はこれまで、あなたが死ぬ瞬間に目に見えない姿でそばに立っていましたが、いま、私は目に見える姿であなたの前に立っています。私の境域を踏み越えると、あなたは、今まであなたが地上を去るたびに足を踏み入れてきた領域に入っていくことになります。あなたは完全に意識的にこれらの領域に足を踏み入れ、それから先はずっと、外面的に目に見える姿をとって地上で生活しているときにも、同時に死の領域で(しかし本当は、それは永遠の生命の領域なのです)活動することになります。ある意味において、私は死の天使です。しかし同時に私は、決して涸れることのない高次の生命をもたらす存在でもあります。生きている肉体のなかにいるときに、あなたは私をとおして死を体験しますが、それはけっして滅ぼすことのできない存在のなかで、ふたたびよみがえるためなのです。”(ルドルフ・シュタイナー『いかにして高次の世界を認識するか』松浦賢訳 柏書房 P.227~232)

 

霊/精神の個体性/一回性を自覚してこそ、人は勇気を獲得する。恐怖は消え、あなたは一人で、生と死の淵にありながら、何の不安も感じない。

霊/精神は、高次の自我だ。人類の誰もが、それぞれの高次の自我を、それぞれの成長過程にあって/成長段階において、有する。

通常、人は、自分を魂/低次の自我と同一視しているから、霊/精神である高次の自我こそが、自らの本質であると気づくことの意味は、計り知れない。それこそ青天の霹靂(せいてんのへきれき)である。

 

思考に集中しているとき、人は我を忘れる。そのときすでに、人は霊たちの国へと入っているのだ。

人はなぜ思考するのか。人は思考することによって、霊たちの国の方角(ほうがく)へ、舵を切っているのである。

 

”・・・この瞬間ぼくは、心をうばわれて上空を見つめている自分の顔に、かすかな響きが近づいてくるのを耳にした。もちろんその出来事の順序は逆だったのかもしれない。だから最初にその響きを耳にして、そのあとはじめて危険が接近してくるのを理解したのかもしれない。しかし同じ瞬間にぼくはもうその正体もわかっていた。飛箭(ひせん)だ! と。それは先のとがった鉄の棒で、大工のもちいるでっかい鉛筆ほど太くなかった。そうした鉄の棒を当時の飛行機は上空から投下した。飛箭が頭蓋に命中すると、確実につきぬけ、足の裏のところでやっとふたたび顔をみせたが、なんといってもめったに命中しないので、やがてふたたび使用中止になった。だからそれがぼくにとって初めての飛箭だった。しかし爆弾や機関銃の弾はまったくちがう音をたてるので、自分がなにを相手にしているか、すぐにわかった。ぼくは緊張し、つぎの瞬間にははやくも、確率的にいってありそうもない奇妙な感じにとらえられた。飛箭が命中する!

その感じがどんなものだったか、きみにわかるかい? 恐怖の予感といったものではなく、これまでいちども予期したことのない幸福に似た感じなんだ! 最初ぼくは自分だけがこの響きを聞くことになったのを、不思議に思った。そのあと考えたのは、この音は再び消滅するだろうということだ。しかしその音は消滅しなかった。それはとても遠くにあったが、ぼくに接近しつづけ、接近するにつれて、だんだん大きくなった。そっと連中の顔をうかがったが、だれもその音に気づいていなかった。そして自分だけがこのたえなる調べを耳にしているのだと気づいたこの瞬間、ぼくのなかからなにかがその調べに向かって立ちのぼった。生の光が。それは上方からやってくる死の光とまったく同じように無限だった。ぼくはつくりごとをしゃべっているのではない。できるかぎりわかりやすく自分の体験を描写しようとしているのだ。ぼくの確信だが、ぼくは物理学のような冷静さで表現してきたと思う。もちろん、こうした表現がある程度まで夢のなかで話すのとさほどかわらないのを、ぼくは知っている。夢のなかではきわめて明瞭にしゃべっているつもりでも、口から外にでた言葉は混乱しているからね。

長いあいだそうしたことが続いて、そのあいだぼくだけが接近してくる出来事に耳を傾けていた。出来事といっても、それは歌うようなか細い単一の高音で、グラスのふちを鳴らすときのような音だった。しかしその音にはなにか非現実なものがまといついていた。おまえはこんな非現実な音色を今までいちども耳にしたことはない、とぼくは自分に言いきかせた。そしてこの音はぼくに向けられていた。ぼくはこの音と関係があって、なにか決定的なことが自分の身におころうとしているのを、少しも疑わなかった。心にうかぶ思いはなにひとつ、生から訣別する瞬間にうかんでくるといわれるようなしゅるいのものではなかった。ぼくの感じた思いはすべて未来に向けられていた。わかりやすく言わなければならないが、つぎの瞬間、神のおとずれを自分のからだのすぐそばに感じるだろうと確信していた。八歳のときから神を信じなかった人間にしてみれば、これはとにかくひととおりのことではないのだ。”(ローベルト・ムージル『黒ツグミ』 斎藤松三郎訳 ムージル著作集 第八巻 松籟社 p.115,116)

 

神ではない人間に、全体小説は無理がある。

だから、ムージルの全体小説『特性のない男』は、ムージルの並々ならぬ奮闘にもかかわらず、未完成に終わった。

しかし、神ではない人間には、別のやり方がある。

詩を書くことである。あるいは、全体小説という体裁(ていさい)をとらない小説やエッセイである。

 

いずれにしても、思考の営みというものは、人間存在にとって大きな希望であり、楽しみであり、神ではない人間存在に与えられた最大の可能性である。