思考を巡る覚書 | 大分アントロポゾフィー研究会

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人類のこれまでの思考の営為とその跡付け・・・

 

哲学(史)、科学(史)、制度(史)、文学、音楽、絵画、彫刻、建築などの芸術作品の中に、・・・私たちは、人類の思考(の辿ってきた道筋)を見ることができる。

そして、私たちの魂の中で、なおも思考は働く。

 

しかし、思考は常に危険に晒されてもいる。硬化し、生命を失い、もはや影や写し/コピーとしか言えないものに堕する(だする)危険だ。

 

”みすゞ(金子みすゞ)には、クジラの法要を描いた詩「鯨法会(くじらほうえ)」があります。

 

鯨法会   金子みすゞ

 

鯨法会は春のくれ、

海に飛魚(とびうお)採れる(とれる)ころ。

 

浜のお寺で鳴る鐘(かね)が、

ゆれて水面(みのも)をわたるとき、

 

村の漁夫(りょうし)が羽織(はおり)着て、

浜のお寺へいそぐとき、

 

沖で鯨(くじら)の子がひとり、

その鳴る鐘をききながら、

 

死んだ父さま、母さまを、

こいし、こいしと泣いてます。

 

海のおもてを、鐘の音は、

海のどこまで、ひびくやら。

 

   『さみしい王女』

 

仙崎の海を血で染めて死んでいった鯨の魂を弔う(とむらう)鐘の音色が、寺から海へ響きわたるとき、みすゞは、大陸で死んだ父こいし、遠い下関へ嫁いでいった母こいしと、夕暮れの浜で、ひとり目を潤ませていたのでしょう。

みすゞが生涯抱き続けた癒やしがたい孤独を、ふるさと仙崎と青海島の歴史的な風土のなかに、詩情豊かに詠いあげたみすゞの言葉が、しみじみとした哀切の念をよびおこします。

 

大切なことは、みすゞは自分の胸にたゆたう寂しさをじっと見つめ、七五調の詩に書いて、一つの作品として完成させている点です。

詩を書くことで悲しみが完全に消えることはないにしろ、会心(かいしん)の作に仕上がった喜びや満足感は、孤独を癒やしたのではないでしょうか。ましてやその詩が、敬愛する人気詩人の西條八十に選ばれて雑誌に載れば、天にものぼる心地だったでしょう。

自分のさまざまな感情を詩歌にして発表する、文学へ昇華させる、自作が印刷されて活字になることは、みすゞの生涯を通じて、彼女の喜びであり、魂の救済だったと思います。

逆に言えば、それが出来なくなったとき、彼女に悲劇が訪れます。”(松本侑子『金子みすゞと詩の王国』文春文庫 p.59~61)

 

金子みすゞは、詩作という思考の道を通って、自らの高次の自我へと至った。

低次の自我は魂だが、高次の自我は霊/精神である。

魂を生かすのは、霊/精神である。

「会心(かいしん)の作に仕上がった喜びや満足感は、孤独を癒やし」、「喜びであり、魂の救済だった」。

詩作すること、思考することが、金子みすゞに生きる力をもたらした。まさに「魂の救済」であったのは間違いない。

魂が霊たちの世界へと引き上げられたということである。

 

詩作すること、思考することには、並々ならぬ集中力と持続力が必要である。

魂に、思考するための集中力/持続力をもたらすのは、高次の自我に発する意志である。

高次の自我、意志、カルマ、これらはすべて、源(みなもと)は同じである。

愛/アガペー/キリスト衝動が、そこにある。

 

”・・・わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。”(「マタイによる福音書」第28章)

 

”・・・「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。・・・また、だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。・・・」”(「マタイによる福音書」第18章)

 

「幼な子」とは、まさしく成長途上の高次の自我である。それは、霊/精神に他ならない。

「心をいれかえる」とは、思考の営みを強化することによって、低次の自我を脱し、自らの高次の自我に向かって舵を切るのである。

そこに、「かれ(あなた)」がいる。

 

高次の自我は、人間が地上の世界を生き抜くことによって、成長する。

アーリマンとルシファーから、いくつもの誘惑が来る。

人間は、そのような誘惑に巻き込まれ、我を忘れ、我を失う。

自分の大半の時間を、虚しい駆け引きと競争に費やす。

このようなアーリマン/ルシファーゲームを繰り返す中で、人間の思考は弱まる。

魂は硬化し、生命力を失ってゆく。

 

このような虚しさから抜け出すためには、思考をさらに強靭(きょうじん)なものへと鍛え(きたえ)、強化された思考を自ら思考する以外にはない。

あなたが思考するのだ! 思考すること、思考し続けることを、決してあきらめてはならない。

それはたしかに、決して容易な道ではない。

しかし、それ以外に道がないことも明らかだ。

安易な抜け道(実際にはそんなものはない)は、不毛な畜生道(ちくしょうどう)/阿修羅道(あしゅらどう)につながっている。

 

金子みすゞは、詩作という思考の営みによって、自らの高次の自我を見出した。

高次の自我、霊/精神を見出した人間にとって、「死」は・・・

境域の守護者は、自らを ”死の天使” と名乗る。

彼女は、天使に出会った。

その天使とは、彼女が幼いころからの顔なじみだった。