まだ固有のアストラル体をもたない子どもたち(思春期以前の子どもたち)は、それ故、アーリマン/ルシファー由来のイメージ体の拘束から自由である。子どもたちが、ほとんど彼らだけに分かる言葉で語ることがあるのには、そうした経緯/理由がある。
思春期を過ぎた子どもたちは、そういうわけにはいかない。この時期の子どもたちは、固有のアストラル体を作っているところなのである。同時に、彼らの内には、アーリマン/ルシファー由来のイメージ体が巣食い始める。
人は、いわゆる第二の自己認識を成し遂げることなしには、イメージ体の桎梏から脱することはできない。
この第二の自己認識の大きな特徴の一つは、それが他者の秘儀に他ならないということである。
自分の外化された第二の自我/低次の自我に遭遇する。
まさしく第二の自我/低次の自我は、自らの魂の中で巨大化を遂げたアーリマン/ルシファー由来のイメージ体である。
外化されたイメージ体は、境域の小守護者/ドッペルゲンガーの姿をとる。
境域の小守護者/ドッペルゲンガーは、あろうことか、なんと私にとって「あなた/Du」でありうべき身近な人たちの姿の中に、そして彼らの姿から逆照射されるような形で、私の前に姿を現す。
この恐るべき逆照射のメカニズムに気づくことができるかどうかに、すべてがかかっていると言ってもよい。
気づけなければ、彼らは「あなた/Du」としての本当の姿を見せることができないのである。
思春期以前の子どもたちは、いわばナイーブな状態にある純粋思考を為す。そして、そのような純粋思考の言葉を話す。
人が思春期に至り、固有のアストラル体を持つに伴って、アーリマン/ルシファー由来のイメージ体に囚われるようになると、そのような純粋思考ができなくなる。
第二の自己認識/他者の秘儀を成し遂げたとき、人は再び、純粋思考する能力を獲得する。
この場合の純粋思考は、思春期以前の子どもたちが為すナイーブな純粋思考ではもはやなく、