人間が、自ら作り上げたイメージ体の覆いから脱け出て、第四の誕生に至ると、彼は遅かれ早かれ、意志のようなもの/意志に似たものが、ヴィジョンのように出現するのを体験する。
彼は、自らの低次の自我/第二の自我に別れを告げた。そして、意志/ヴィジョンが、あたかも外からのように、現れるのである。
”・・・ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼(サウロ/パウロ)を巡り照らした。彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって、町にはいりなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」・・・”(「使徒の働き」 第9章)
人は、第四の誕生を経て、他者の秘儀へと参入する。
突然、あるいは徐々に、自分の傍らにいるその人(someone)が何者であるかが分かるようになるのである。
わたしはその人(someone)を「あなた」と呼び、その呼び名(「あなた」)が本当に意味するところを知る。
そして、その「あなた」によって、わたしは、他ならぬ自分が、本当は誰なのかを知ることになる。
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誰もが、自分のイメージ体(低次の自我/第二の自我)を守るのに必死である。
しかし、それを守ろうと躍起(やっき)になればなるほど、自分が他者から侵害され、搾取され、否定されるのではないかという不安と恐怖は大きくなって、私に襲いかかる。
「やられる前にやってしまえ」「攻撃は最大の防御だ」などという狂気じみたスローガンに煽られて(あおられて)、私は傍若無人(ぼうじゃくぶじん)にも、手あたり次第、他者を攻撃するという暴挙に出てしまう。
そして、当然のことながら、そのためにかえって自分の立場を危いものにすることになる。
自分がこしらえた、つまるところ徹頭徹尾人工的/人為的なイメージ体の覆いの重苦しさに息が詰まると、私はそこから逃避したくなるのである。
例えば自然は、人間によるイメージ体とは直接的な関りを持たない。だから私は、一見一切の人為性とは無縁の自然の中に安らぎを見出そうとする。
だが、私のイメージ体はどこまでも私についてくる。自然に安らぎを求めながら、私がそこで見出すのは、私色(わたしいろ)に染まった自然のイメージだ。それはやはり、私のイメージ体である。
自分のイメージ体(低次の自我/第二の自我)の外に抜け出すことを、”聖別(せいべつ)”と呼ぶ。人間の第四の誕生とも呼ぶ。