鉱物界の王、アーリマンとカインの末裔の内に働くルシファー衝動 | 大分アントロポゾフィー研究会

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魂が、すべての情念から解放されると、それはアニマ(Anima)となる。

囚われなく、外界に・・・すべての他者を・・・見つめる・・・

 

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”・・・だから、わたしはあなたがたに言います。いのちのことで何を食べようかと心配したり、からだのことで何を着ようかと心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物よりたいせつであり、からだは着物よりたいせつだからです。・・・あなたがたのうちのだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。・・・ゆりの花のことを考えてみなさい。どうして育つのか。紡ぎもせず、織りもしないのです。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。・・・”(ルカの福音書 第12章)

 

人間は受肉を経て、地上の世界へと至ると、鉱物界の王であるアーリマンに対峙することになる。

自らの肉体自体、鉱物界に由来するのだ。この体的基盤なしに、人間はこの地上の世界に生きることはできない。

 

いずれにしても、この地上世界に至った人間の周りに広がる鉱物的外界/鉱物的他者(それ/Es)は、人間の思い通りにはならず、徹頭徹尾融通が利かない。

生まれて間もない赤ん坊が、この地上での生活に不慣れなのは言うまでもないが、大人も不慣れであることにさほど変わりはない。

 

この地上世界に生きる私たちは、いわば、鉱物界というアーリマン空間と情念の渦巻くイメージ体のルシファー空間に閉じ込められているのである。

 

このとき、ルシファー空間としてのイメージ体は、アーリマンのオーダーに従って形成される。どこまでも唯物主義によって貫かれている。

 

・・・鉱物界を鉱物的な体(たい)をもって生きる。鉱物の体(たい)に生命が宿り(エーテル体)、そして魂が息づく(アストラル体)。

そのような三重の体(たい)と共に、人間/自我/精神/霊が存在する。

 

鉱物界において、植物的/動物的/人間的他者(それ/Es)と共に生活するためには、そのための技術が必要になってくる。

教育とか文化の継承といった事柄の由来は、ここにある。

 

人間は自らの体/魂の内に燃え盛る情念のエネルギーを使って、イメージ体を生み出す。

 

”さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と言った。彼女はまたその弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。・・・カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。”(創世記 第4章)

 

そのようなイメージ体を媒介にすることにより、私たちは地上生活を営んでいる。

イメージ体は常に情念の焔によって貫かれており、言葉を換えれば、ルシファー衝動の化身であると言うことができよう。

そしてイメージ体は、大きくアーリマンのオーダーによって支配されているのである。

 

そのようにしてこの地上の世界を生きながら、人間は生きる必要に駆られて、アーリマンのオーダー/唯物主義を繊細化/先鋭化させてきたという歴史がある。恐るべき唯物主義のラディカリズムである。

コンピューターとAIの技術の中に私たちは、そのような唯物主義ラディカリズムの薄気味悪いアイコンの降臨を見ることができる。

 

ルシファー衝動とアーリマン原理の結婚。

ときに強く、ときに弱く、また、ときに激しく、またときに柔らかく、変幻自在に揺らめきその色合いと濃淡を変え、人を魅了し酔わせて止まない情念の焔が、アーリマンの機械的な自立性と鋼鉄の無慈悲さと一体となって、強烈なパワーをもつ魔体(またい)を生み出す。イメージ体/文脈イメージである。