人はパンだけで生きるものではない(7) | 大分アントロポゾフィー研究会

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文脈イメージ如何(いかん)で、個々の感覚的イメージ、言語的イメージの様相が変化する。

これこそ、文脈イメージの持つ魔術的力であり、魔術的観念論(ノヴァーリス Novalis)の肝(きも)である。

 

 

この地上の世界を生きながら、人はいかにして自らの故郷(霊界/精神界)を知るか?

自らの運命/カルマと遭遇することによって、知るのである。

それは一度の人生で、一回限りの出来事ではあり得ない。

 

 

人間の魂が、様々な人生経験を経て、あるいはカルマ的に浄化され、聖霊を受け容れることができるまでに至ると、その魂は聖母マリアの魂のようになる。

聖母マリアは、そのような清らかな魂の”典型”である。

 

”典型”は、ゲーテの語った”原型”であり、単なるイメージではない。

つまりここでは、”典型”は、もはや、仮象/フィクションでは既になく、しかしかと言って、霊的存在そのものでもない。

霊界/精神界とこの地上の世界との中間に(境界に)、魂/アニマとして、顕現(けんげん)/出現している。

 

かつて聖処女マリア(アニマ)は、聖霊(ロゴス)を受け容れ(受胎し)、神の子を身籠った(みごもった)。

この出来事こそが、人間の魂/アニマの原風景である。

 

魂/アニマの基本的性質は、受動性にある。

魂/アニマは、すべての他者を受け容れようとする。