私は鉱物界に受肉し、鉱物界の時間と空間の内に生きるようになった。
そして私は、自分の外に、「それ/es」の世界が展開していることを知るようになる。
私の周りに、大地が広がり、川が流れ、海へと流れ入り、河原には大小の石が無数に敷き詰められ、森が広がり、草原では草食動物たちが草を食み、それを狙う肉食動物たちが姿を潜める。
そして私は、他の人間たちと共に、人間界を形成している。
私は、鉱物たち、植物たち、動物たち、そして人間たちに囲まれて、この鉱物界を生きる。
私は、これらの「それ/es」が、感覚的・言語的イメージをまとって私の前に姿を現していると感じる。
これらの感覚的・言語的イメージに、私が並々ならぬ親密さと共感を感じるまでに至ると、これらの「それ/es」の姿は”霊的輝き”を発し始める。
いわば、それまで見聞きし、感じ、当たり前だと思っていたイメージが突然、”ゲシュタルト崩壊”を起こし、別のものに見え始め、何やら非日常的な”霊気”を放っているように感じられる。あたかも陰画/ネガが陽画/ポジに変換されたような感じである。いや、ポジがネガに変換されたのか・・・
偶然と思われたことが、必然だったと感じられるようになり、何気なく予期/予感されたことが実際に起こったりもし始める。
このような状態は、通常の日常生活にとっては、不都合なことだと言うべきだろう。一般的な言い方をすれば、そのような状態に突入した私は、要するに「気が狂っている」のである。
とりあえず、文脈イメージというものを想定したい。
種々(しゅじゅ)想定される諸々の感覚的・言語的イメージに、文脈イメージという切り口を追加するのである。
いずれにしても、すべてのイメージは仮象/虚構(フィクション)である、ということを忘れてはならない。