”それ”の予感と芸術 | 大分アントロポゾフィー研究会

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この鉱物界において、”それ”を表す言葉を、私たちはまだ見出していない。

だが、・・・

 

”それ”が、かけがえのない一回限りの”生”であり、同時に”死”でもあるということを、私たちの誰もが、実は知っており、優れた芸術は常に、いわばこの「既視の予感」を巡って展開してきたのである。

 

”それ”はどこにも在るが、鉱物界における時間と空間の中には、あからさまには存在しない。

”それ”のこのような在りようを表す言葉を、私たちはまだ見出していない。

 

”それ”のことを、「人類の自我」と呼んでも間違いはないが、・・・いずれにしても、言語的イメージは”それ”を直接的に表すことはできない。

「直接的に表す/記述する」とは一体どういうことなのか?

それは、「観察=思考」という状態と同意である。純粋思考なのである。

 

もちろん、ここで言う”それ”が、「それ/es」そのものでないことは言うまでもない。

 

鉱物界に受肉した人間は、その個体性において”限界づけられた存在”であり、同時にその個体性によってひとつの”全体”である。

「限界づけられた全体」という人間存在のこの在りようを純粋思考することこそ、・・・