人間よ
自らの内なる鉱物界を見よ
人間よ
自らの内なるエーテル界を見よ
人間よ
自らの内なるアストラル界を見よ
人間よ
自らの内なる精神界/自我を見よ
人間が自らの内なる精神界/自我を見る時
その時、人間は
「我思う、故に、我在り」と純粋思考している。
人間は、母なる大地に鉱物界を見出す。
植物界に、エーテル界を見る。
動物界に、アストラル界を見る。
人間界に、「汝 Du」になり得る人間の他者を見出す。
この鉱物界において、
すべての実在は、まずは「それ es」として存在している。
「それ es」は、「我 Ich」にとって、常にどこかよそよそしい存在である。
「汝 Du」に変容した時に初めて、「それ es」は「我 Ich」にとってかけがえのない存在となる。
「我 Ich」は「汝 Du」の中に人間の自我を見出すのである。
だから、「汝 Du」を「究極の他者」と呼ぶことができる。
つまり、「汝 Du」は他に取り替えようのない存在としての絶対的な他者なのである。
そのような絶対的な他者としての「汝 Du」は、例えば、妻であったり(もちろん夫であったり)、子であったり、親であったり、友であったりするだろう。
「それ es」は、何らかの理由で、”疎外された他者”である。
「それ es」が、その疎外の魔術を解かれたとき、「それ es」は「汝 Du」へと変容する。
疎外の魔術を解くことができるのは、圧倒的な共感の力、つまり愛だけである。
人間は、セックスを媒介にして、そのような愛を生み出し、獲得することができる。
しかし、セックスはその性質上、アストラル体に由来する動物的な衝動と切り離しがたく結びついており、セックスによってもたらされるかに見える愛にそのままナイーブに留まり続ける(依存し続ける)だけでは、どのみち生活上の無理(不都合)が生じてくる。
「セックス」をとりあえず「恋」と読み替えてみよう。
思うに、セックスにまつわる諸々からできるだけ動物的要素を捨象し、もっと人間的というかロマンティックに表現したいという欲求から、「恋」という言葉が使われるようになったのではないか。
「恋」は男女の出会いによって始まる。
男は恋をする。そして女も恋をする。その男女にとって、お互いは「特別の人/存在」になる。男も女も、「この出会いは運命的なものだ(わ)」と感じる。カルマ的な出会いだと感じるのである。運命/カルマの核心に、霊/精神/自我(「我 Ich」)があり、「運命的/カルマ的な出会い」において相対しているのは、その男の自我(「我 Ich」)とその女の自我(「我 Ich」)である。この時、男は女に「汝 Du」と、そして女も男に「汝 Du」と呼びかけている。
出会う前はお互い見知らぬ間柄(「我 Ich」‐ 「それ es」)だったが、今では「我 Ich」‐ 「汝 Du」の関係性に変わっている。恋/愛の力によって、「それ es」が「汝 Du」へと変容したのである。
愛の営みのスパンをさらに長くとって考えてみよう。
この男女が結婚し、家庭を営むようになる。