記憶とイメージ
主観/意識
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より具体的に記述したい。
純粋思考においては、いかなる媒介もなく、観察対象を思考するのである。
ここで「観察対象について思考する」と言わなかったのは、純粋思考においては、観察対象と観察主体との、いわば「合一」という事態を特徴づけたかったからである。
純粋思考においては、「思考」と「観察」とを分離して考えることはできない。「観察」即「思考」、「見る」ことイコール「考える」ことである。
純粋思考におけるこの「無媒介性/直接性」について、イメージするにあたって、私たちが日常生活において生きるためにせざる得ない「家事 home work」を例に、説明するのがわかりやすいと思う。
例えば、料理に慣れ、習熟していくと、生きる上での料理という行為の必要性/重要性に気づくのみならず、その行為自体の持つ面白さに魅了されるようになる。そして、自分が料理したものを食べること(できれば、自分一人で食べるのでなく、誰か親しい他者といっしょに)による充実感を感じることができれば、料理と食事によって得られる幸福感は、他に代えがたいものがある。
例えば、自分でスズキ(魚)をさばいている。目の前に、まな板の上に、スーパーから買ってきた、朝どれの近海産スズキが横たわっている。私は、目でスズキの形と色合いを観察している。手で触ってみて、スズキの体の感触を確かめる。まず、スズキをシンクに横たえ、うろことりで、うろこをとる。シンクの中に、スズキのうろこが飛び散る。うろこを取り終えたら、スズキの体を水道で洗って、うろこを落とす。スズキをまな板の上に乗せ、右手に持った包丁でスズキの頭を落としにかかる。・・・
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今の段階では、マッピングが明確にはできておらず、言葉がまだ熟していないので、とりあえず、映像イメージ、音響イメージ、言語イメージ、文脈イメージ、・・・思考の枠組み、・・・触覚イメージ、臭い(におい)イメージ、味(あじ)イメージなどなどを想定してみたい。
これらの感覚イメージが共同して機能し、いわゆる共感覚イメージとなる。
諸々の個々のイメージは、記憶によって保持され、同時に魂の中で絶えずその姿を変えている(変容)。
鉱物界へと受肉した私たちは、これらのイメージを媒介として、実在/霊/精神に近づいてゆく。だが同時に、高度資本主義社会の現代においては、これらのイメージに依存し過ぎることによって、実在/霊/精神から遠ざかるという皮肉な事態も生じてくる。