・・・そのとき、わたしは蝉の前足の動きに、ディナーミスを見た。
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低次の自我(魂)は、寝ても覚めても、四六時中、死を恐れ続けている。
彼の日常生活の基底音は、死ぬことに対する恐怖の感情だ。
このままでは、彼の日々の生活の営みは、結局のところ、暗中模索の中でもがき苦しみながら、死ぬための準備をし続けていた、という何やら悲喜劇めいた物語になってしまう。
多分、このような死に対する恐れの感情は、私たちが受肉を通して、この地上の世界へと生まれ落ちたことに端を発する。
生まれたからには、いつか死ぬ、と誰もが迂闊にも信じきっているのである。
この時、この主観的な観念(”生まれたら、いつか死ななければならない”)が、認識活動を通して獲得された思考内容ではないことに、気づかなければならない。
”私はどこから来て、どのように生き、そしてどこへ行くのか”というのは、認識の問い、つまり科学の問いなのである。
例えば、二大精神病と呼ばれている双極性障害と統合失調症は、いずれも本当のところは””病気”と呼ぶべきではなく、”狂気”の一形態なのであり、感情(魂)の何らかの不調に端を発していることは、直感的に明らかである。
だから、感情というもののダイナミクスを冷静に観察することにより、これらの狂気の在り様がはっきりと見えてくるはずなのである。
現代の精神医療は、多くの場合、このような精神科学的な認識行為を怠っている(無視している)ように思われてならない。
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観察と思考が、科学の方法である。
観察は、何らかの視点を設定して為される。
見出されたいくつかの観察結果を、思考が関連づける。
そのようにして、認識(思考内容=概念)が、生み出される(発見される)。
このプロセスが、科学と呼ばれる認識の営みの原理である。
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かなり文学的に表現してみると、・・・
双極性障害とイレウスによる
半年に及ぶ入院生活がなければ、
私が今、
”内的平静(勇気)”、
そして、
”他者の秘儀”と呼ぶ
~ 魂の謎 ~ を
発見することは
なかっただろう・・・
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・・・そのとき、わたしは蝉の前足の動きに、ディナーミスを見た。
そして、空を見上げた・・・
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魂は自分の魂なのであり、当人が何の媒介もなしに、つぶさに観察できる、またとない科学の研究対象なのである。
ただし、魂は主観の担い手でもあるから、事は少々ややこしくなるように見えるかもしれない。
観察対象が、同時に、観察主体にもなりうるのだろうか?
実は、問題はそれほどむずかしくはない。
むしろ、シンプルだとさえ言えるのである。
自らの感情(魂)を、自らの思考の力で観察・認識すればいいのである。
またさらに、自らの思考内容を、自らの思考によって理解すればいいのである。
このような力を持つ思考を、純粋思考と呼ぶ。
純粋思考によって、自らの魂のダイナミクスを観察し、認識するのである。
純粋思考は、何ら外的なものに依存することなく、人間の魂の内で、他ならぬ精神(高次の自我=霊)の力によって機能するのである。
精神科学は、純粋思考(この場合はメディテーションと似てくる)によって、霊を認識するところまで射程に収めている。
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シュタイナーは、概念は霊である、と言う。