2023.7.31-2 ST 認識と意見表明 | 大分アントロポゾフィー研究会

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感情を鎮静させるためには、それなりの時間を要する。

共感と反感は ほとんど瞬時に 直感的に生じる。

だれか(なにか)自分の外部に 他者を目撃した瞬間

この人は好き あの人は嫌い という感情が生じるのである。

 

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人間が、何らかの対象(他者)を前にした時、瞬時に、魂の内に共感か反感のいずれかが生じる。

そして、次の瞬間には、共感が反感に、反感が共感に交替している。

”共感 ⇔ 反感”の、この絶え間ない揺れのプロセスが進行するうちに、低次の自我による他者に対する主観的な態度が定まってくる。主として、”好き”か”嫌い”かという態度が。

低次の自我は、このような主観的な思考内容を基にして、他者に対する自分の意見をまとめていく。

 

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共感と反感という魂の働きなしには、人間の認識の営みは発動しない。

 

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原理的な事柄に、無理に還元しようとすると、実態が見えなくなる。

人間の認識欲求には、そのような傾向が、色濃く存在する。

原理主義の危険性は、ここに端を発すると言うことができる。

だから、認識の営みにおいては、人間の魂のこのような傾向に対する注意を怠ってはならない。

 

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認識の営みは、思考を通して為される。

だが、思考が働くのは、認識においてだけではない。

人間の魂による判断と主張においても、思考が働いている。

認識の営みと魂による判断・意見の表明とを混同してはならない。

 

認識のおいては、客観性が要となるが、魂による判断・意見の場合は、当事者性、つまり主観が命なのである。

だが、この場合の主観性においては、思考による認識活動を通して獲得された思考内容=概念の客観性が、その価値を決定する。

科学というものの重要性は、まさにここにある。

 

ところが、現状は、科学=認識の営みが 人間の思考を要(かなめ)として為されるという点が、ともすると忘れられるという事態が生じているのである。

科学は、思考を通してのみ成り立つ、と言っては言い過ぎであろうか。