自己疎外 → 他者支配
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そこに他者の秘儀が進行しているのを見る時、私はそれを自らの教育に役立てることができる。
他者の秘儀においては、必ず”失敗と挫折”のプロセスが見て取れる。
意識魂の時代においては、安易な”癒し”を求めるべきではない。
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他者に遭遇することを、人は心の奥底では望んでいない。
だが、同時に霊においては、それを欲しているとも言える。
いずれにしても、他者との出会いは、低次の自我(魂)が予想もしなかった形で起こるのである。
だからその時、低次の自我は戸惑い、動揺する。何の準備もしていなかったのだから。また、準備していたつもりが、そのような準備が何の役にも立たないとその時に初めてわかるのだから。
その時、低次の自我(魂)の自己防衛機制が発動し、出現した他者を悪者にしてしまう。
これは、この意識魂の時代においては、日々、この地球上のどこにおいても起こっている日常茶飯の出来事なのである。
つまり、まさに今、この地上世界の至る所で、他者の秘儀が、それとは知られないまま、進行し続けているのである。
この事実を発見しなければならない。
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あなたが今、自らの高次の自我(霊)だと思い込んだその他者は、あなたの低次の自我(魂)である。
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倫理的個体主義 ー カルマ
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継続できるかどうか・・・魂の強さが試されているのである。
魂の強さは、カルマによってもたらされる。
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”今、何をすべきか”・・・いくつかの選択肢の中から、一つを選ばなければならない。
このことが、実は、一番難しい。
このことは、他者の秘儀の持つ一つの側面である。
人間は、この地上の世界を生きるに際しては、常に時間と空間という鉱物界の法則に縛られているため、この難問を避けては通れない。
人間は、時間存在なのである。
時間存在とは、究極的には、カルマ的な存在であるという意味である。
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この意識魂の時代においては特に、人は”高度資本主義社会”に由来する様々な誘惑に晒され続ける。
これらの誘惑の正体は、低次の自我の思考内容である。
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ルシファーとアーリマンの誘惑は、避けがたい。
それに対処するには、内的平静と勇気という魂の態度が不可欠である。
ルシファーとアーリマンは、人間の魂の内にも存在しているので、人間は、そのような存在の姿を実際に見ることができるのである。
ただ、そのためには、他者の秘儀のプロセスに参入し、自らの魂の現実を注意深く観察しなければならない。
言うまでもないことだが、その際には、霊的な勇気が必要である。
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感情は伝染する。
直接会わなくても、それは伝わり、あなたが他者の有する何らかの有害な感情に汚染されるということが起こりうる。
例えば、何者かの ”下品な品性” が伝染してゆく。
そのアストラル的雰囲気に囚われた人たちが集まると、そのような気分はすぐに増幅してゆく。
ルシファー的な悪の存在とアーリマン的な悪の存在にとって、これほど居心地のいい場所はない。
本来の霊的な魂は、このような場所の雰囲気から、適度な距離を置く術(すべ)を身につける必要がある。
ルシファーとアーリマンを全否定することはできないが、だからと言って、それらの存在に憑りつかれ(とりつかれ)かれらに大きく依存するようなことになれば、人は狂気に陥る危険性があるのだ。
そのような狂気は、人を自己認識の道から遠ざけてしまう。
そのような狂気に陥るような事態を、カルマ的な観点から観察することもできるとは思うが、精神界にまだ十分参入していない者が、そのような事柄について、性急に判断を下すことは慎むべきである。
このことも、倫理的個体主義の原則の一つなのである。
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”秘儀参入は神秘学の訓練における最高の段階です。書物のなかでは、秘儀参入に関して、一般の人びとでも理解できるようなおおまかな事柄しか、お伝えすることはできません。一般の人びとにとって、秘儀参入のさまざまな事柄に関する記述を理解するのは容易ではありませんが、準備と啓示と秘儀参入をとおして、低次の秘密まで足を踏み入れた人は皆、このような記述を理解するための道を見出すことになります。
秘儀参入しない人は、秘儀参入をとおして受け取ることができる知識と能力を、はるか遠い未来においてようやく(何度も受肉を繰り返したあとで)、まったく別の方法と状況をとおして身につけることになるでしょう。一方、今秘儀参入する人は、秘儀参入しない場合には、ずっとあとになって、まったく別の状況のもとで経験することになる事柄を体験することになります。” (ルドルフ・シュタイナー『いかにして高次の世界を認識するか』松浦賢訳 柏書房 p.77)