霊的なものの顕現は、低次の自我(魂)から見た時には、常に突然で予想外の形で起こる。
例えば、さっきまで抜けるような夏の青空が広がっていたのに、天気予報もそんなことは伝えていなかったはずなのに、急に掻き曇り、雷まで鳴り始める。父の墓参りに行く車中での出来事だ。土砂降りになった。…行くか行かぬか迷いつつも、車は墓地に到着する。見上げると抜けるような青空が広がっている。… … …
…このようなプロセスが生起し、まさに進行中だと気づいたならば、自分にできる最高度の意識性を発揮し、普段にも増して注意深く観察する態度をとらなければならない。時と状況に応じた臨機応変な行動決定をしていく必要がある。まさに一瞬一瞬。
なぜならば、霊においては、地上的な時間と空間は存在しないからである。こちら側の都合でどうこうできる問題ではないのである。
いわば、高次の自我(霊)は、このような形で低次の自我(魂)の前に出現する。
同時に、自らの低次の自我(魂)の内に潜んでいたルシファー的な存在とアーリマン的な存在が活性化して、境域の小守護者の姿をとり始める。
その気配が次第に鮮明になってくる。
魂の内に恐れの感情がこみ上げる。
細心の注意と最大限の勇気がなくてはならない。
このような事態に至るのを、低次の自我(魂)は予測することはできないし、このプロセス全体を通して、何もかもコントロールすることもできない。
低次の自我(魂)にできるのは、いつ何時、霊が顕現してもいいように、前もって”準備”しておくことだけである。
”準備”なしにこのような状況に遭遇することは、極めて危険である。
文字通り、命さえ失うおそれがあるからである。
アーリマン的な存在は、融通の利かない恐るべき機械性を露わにし、ルシファー的存在は、バッカス祭のような狂乱のオーラを纏って、光り輝きながら舞い上がる。
魂の内に最高レベルの落ち着きがなくてはならない。
日々、そのための準備と練習をしておくべきである。
”資本主義社会”における日常生活は、そのための(準備と練習の)恰好の場所であると言うことができる。
必要な勇気と落ち着き(内的平静)を、例えば、ベートーヴェンの音楽に感じ取ることができる。
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芸術作品は、霊的なものに向き合う魂の態度を表明する。
態度というものは、決して受動的ではありえない。
態度は、思考を通して生み出される。
そして、態度が魂の気分を生み出す。
”内的平静”というのは、魂におけるもっとも重要な態度である。
なぜならば、”内的平静”という態度なしには、魂は予期せぬ出来事に対応できないからである。
そして、この”資本主義”の世界、意識魂の時代においては、日々の生活は予期せぬ出来事と事物の出現の連続なのである。
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霊の出現を目の当たりにすると、魂は衝撃を受けるものだ。
それが、霊的なものを発見した時に、必ず伴う魂の状態(感情・気分)である。
内的平静と勇気は、ほとんど同意である。
内的平静と勇気の時、自我(私)は、自らの魂の外にある。
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例えば、医者や教師も、霊に向き合うのに適切な態度を自らの魂の内に生み出さなければならない。
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大切なのは、理論ではない。思考である。
人は直観を伴った純粋思考によって、霊を認識する。