自己認識という切り口の希薄な神秘主義は狂気に至る。
意識魂の時代においては、自己認識の営みは”他者の秘儀”の形をとる。
自己認識とは、言葉を変えれば、”私はどこから来て、どのように生き、そしてどこへ行くのか”と問い続けることである。
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研究とは、分けること、分類すること、そして地図を作ることに他ならない。
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言葉に縛られるのは避けるべきだが、言葉は研究=自己認識を進める上で助けになる。
だから、言葉に対しては、最大限の注意を払い、自覚的・意識的でなければならない。
もちろん、言葉の力ですべてが解決するわけではない。
言葉は世界を分節化し、思考のための地図を作るという働きをする。
言葉というもののこのような原理的性質故に、人は言葉に依存し過ぎるきらいがある。
だが、言葉は思考そのものではないのだ。
ルドルフ・シュタイナーの言葉は大いに参考にすべきだが、他の人の著作を無視すべきではない。
アントロポゾーフではない人の書いた著作(研究)を無視してはいけない。
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意識魂の時代における自己認識=他者の秘儀については、まだ十分に認識されているとは言えない状況である。
他者の秘儀の道を行くことは、孤独の中を行くことを意味する。
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アントロポゾフィー以外の社会芸術を無視できないのは、ミケランジェロやベートーヴェンの存在を無視できないどころか、彼らから学ぶべきなのと同じ意味においてである。
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低次の自我の姿は、常に私の前に見えている。
今、目の前に立っているその他者の姿が、実は自らの魂(低次の自我)の姿(鏡に映った写し)なのだと気づかなければならない。
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低次の自我に媚びを売るような芸術は、芸術の名に値しない。
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他者としての低次の自我の姿を見ること、境域の小守護者に遭遇し、その姿をつぶさに観察すること、このことこそ、地上生における最重要の課題、カルマ的課題なのだが、まさにこのプロセスは、”自己疎外”と呼ばれるプロセスと重なるのである。
自己疎外を克服することを通して、低次の自我を克服することを通して、高次の自我、霊としての本来の自己を見出し、受容するのである。
もちろん、自己疎外のプロセスを克服するためには、最高度の勇気が必要である。
低次の自我の悪と醜さをも見据える魂の強さがなければならないのである。
このような勇気の諸相を、身をもって体験しなければならない。
勇気という魂の態度は、思考を通して生まれる。
思考が、感情と意志を生み出すのである。
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最高レベルの、最直近の他者、絶対的他者としての低次の自我。
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私が自分の外の世界だと思いこみ、そしてその外の世界に見ているものは、実は、私自身の魂の世界(低次の自我)なのである。
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疎外とは、原理的には、二つに分かれるということである。
それは反感の発動によって始まり、それによって、”不幸”が生み出されるのである。
自己(内)と他者(外)に分かれる。
自らの前に他者が現れるのを、低次の自我が見ると、その他者は完全に異質な外部的存在であると感じられる。
人間は、自らの魂の内に、高次の自我と低次の自我(究極の他者)を持つが故に、幸不幸と快苦の生を生きる。
この魂の生活を通して、人は成長してゆく。
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高次の自我にとって低次の自我は異質な存在であるから、低次の自我は高次の自我にとって常に他者として現れる。
同様に、低次の自我にとって高次の自我は、はじめは、他者として現れる。
本来の霊的な魂は、もともと一つの全体として存在していたが、受肉のプロセスを経て、精神界から体的に独立・分離し、鉱物界に生きるようになった。
このプロセスが進行する中で、本来の霊的な魂は、地上の世界を生き抜くために、自らを二つに分裂させることになった。
地上の世界は、その原理的な特性上、時間と空間という条件によって固くきつく縛られているので、人がそこで生活するためには、それなりの力と技術が必要になってくる。
ここに自己疎外と他者支配の視点を当ててみる必要がある。
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自己疎外 ー 他者支配
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植物界と動物界においては、私たち人間が、”暴力”と呼ぶのと似た力と戦略によって、それぞれの個体が他の個体と相対しているのを観察することができる。それは自然界のルールであり、そこに善悪や美醜の判断の入り込む余地はない。
人間界においては、精神界のルールが適用される。
だから、人間界においては、暴力という手段は、端的に許されないのである。
なぜならば、個(全体)が他の個(全体)を、霊が他の霊を、力でもって強制的に侵害することは、精神においては許されないからである。
その強制と無理強いの度合いにおいて他を圧倒するのが、暴力というやり方である。
暴力は、その特性上、相手を死にまで至らしめるものである。
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倫理的個体主義の原則を参照すること。
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躁鬱(バイポーラー)は、境域の守護者を前にした際の低次の自我による(気質的な)防衛機制の現れである。そして、おそらくそこには、カルマ的な要因が深く関わっている。
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躁(鬱)は多血質の特徴である。
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この意識魂の時代において、一人一人の低次の自我がかなり極端な肥大化に至り、そのことによって、他者の他者性がかつてなく強烈に感じられるようになってきた。
その結果、他者からほとんどいつも責められ、攻撃されているように感じてしまうようになっているのである。
低次の自我は自分を守る必要に迫られているよう思い込む。
ここに魂による自己防衛機制が働く。
誤解を恐れず極言するとしたら、”資本主義システム”とは、人類の低次の自我による自己防衛機制の集合的な現れのことである。
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健康な欲求と不健康な欲求がある。
不健康な欲求とは、過度な欲求であり、何かに(他者に)依存するような欲求のことである。
”人より上に行きたい”という欲求が顕著なことが、現代人の大きな特徴である。
この欲求を満たすためにうってつけのシステムが、資本主義(つまり金銭)であり、そして力(資本主義)である。さらに、内向きには快楽(資本主義)である。
つまり、資本主義とは、金と力と快楽なのである。
金銭依存、力依存、快楽依存は、不健康である。
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他者の存在自体が自分に対する攻撃だと直感されるのが、意識魂の時代の特徴である。
低次の自我の過度な自己防衛機制故に、その分、低次の自我(魂)の攻撃性が高まっているのである。
低次の自我(魂)のそのような過敏さと攻撃性という性質に、最大限、自覚的・意識的である必要がある。
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予測できないものごとの生起を通して、人は発見に至る。
霊的なものを発見するのである。
期待も予測もしていなかったことを通して。望んでもいないことを通して。
つまり、常に(!)他者を通して、霊的なものが出現するのだ。
そのようにして、カルマは開示される。それは不可避なのである。
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すべての他者は、低次の自我の鏡(!)である。
高次の自我は霊であり、低次の自我は魂である。
霊は、カルマを通して成長(進化)する。
究極的には、(魂において)地上の生活の幸不幸や快苦がどうであろうと、そのことは霊にとってはすべてOKなのである。
いずれにしても、霊は、この地上生を生きる限り、魂と肉体を媒介にして、成長する。
高次の自我(霊)の成長は、人類の霊の進化に直結しており、ここに、例えば芸術の存在意義がある。
この意味において、芸術は霊的なものであると言うことができる。
芸術は、魂と物質体を媒介として用いることにより、霊的なるものを指し示し、そこに人間は霊を発見するのである。
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何かを書き始めたからといって、それを章立てしたり、そこから何やら理論めいた文章を作り上げようとしたりする必要はないどころか、そのようなことは思考する上でむしろ有害でさえある。
低次の自我は、ついそのようなことをしたがるものである。
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霊において人と人とがつながるとは、それぞれの人が霊において同じ思考をしている(同じ思考内容=概念を共有している)という状態のことである。
霊的な魂における思考とは、純粋思考・直観思考である。
低次の自我同士では、いくら言葉を尽くして意見交換しても意思疎通がままならず、しまいにはお互い思いもよらず衝突までしてしまう。
霊的な魂においては、直観思考・純粋思考が機能するので、言葉に出さずともお互いを認め合うことができる。
精神の世界においては、鉱物界とは異なって、時間・空間という制約が存在しない。
時間と空間を超えて、感応・交感し合うことさえできるのである。