まず、反感について。
1 反感は不快だ。だが、私たちの通常の生活場面において、反感が起こってくることは避けがたい。まるで、それが習慣ででもあるかのように、私はいつのまにか反感に溺れるのにうつつをぬかしている。あたかもそうすることが癖ででもあるかのように。
1-1 一度、反感が起こってしまうと、その反感を拭い去ることはむずかしい。その反感が次の反感につながり、まるでドミノ倒しのように、あとは自動的に反感が連鎖してゆく。反感のネガティブサイクルだ。
1-2 反感はアーリマンから来る。アーリマンは死の世界の王であり、それ故、反感には常に死の臭いがつきまとい、実際、人間を死に至らしめるのだ。
2 エゴイズムは反感のモチベーションによって貫かれている。私たちは何事にもまずは反感だと決め込んででもいるかのようだ。それ以外の選択肢をエゴイスティックな私たちは思いつかない。反感の持つ測り知れないネガティブなエネルギーは、アーリマン由来の死の力だ。
2-1 死は生命に敵対する。
2-1-1 自分の魂の内に、反感が起こってきたのを感じたら、それが死の力であり、アーリマンから来たのだと確認しなければならない。このポイントをしっかり押さえなければ、反感のネガティブサイクルに陥って、そのような不注意ゆえに自らの生命を枯らすことになるから。
2-2 そうだ。エゴイズムはそのような反感のネガティブサイクルの典型なのだ。それは、反感/死によって貫かれている。そのように貫かれながら、まるで癌細胞のように魂の中に増殖してゆく。
2-2-1 エゴイズムの力学であなたが始めた虚飾に満ちた人生ゲームは、誰も幸せにしない。あなた自身、自らの反感にまみれていや増す不幸になる。
3 例えば、あなたが、何かのメディアを通じて、何らかのテキストを目にする。それらのテキストを十把一絡げ(じっぱひとからげ)に「情報」とまとめるのは、あなたの思考にとって何ら役には立たない。そこで何が起こっているのかを、現実に即して、見直すべきだ。
3-1 まず、あなたはピュアな状態でそれらのテキストに向き合うことはないということ。あなたが自覚しているか否かにはかかわりなく、そこにはあなたの先入見が入る。その先入見によって、あなたの対象意識は優れて対象化される。そのようにあなた色に染まった意識のただ中に、何らかのテキストが現れるのだ。
3-2 次に、そのテキストは他者である何者かによって書かれたということ。多くの場合、そのテキストを書いた人物が誰であるか特定することはまずできない。仮に、書いた人物の名前がわかったとして、その人物が実在しているか、それとも架空の人物なのか突き止めることはまずできない。
3-3 突き止めたとして、そしてそれが実在の人物であったとしても、あなたは多くの場合、その人物と面識などないから、テキストの無名性の危うさを完全には払しょくできない。不確実性だ。その意味において、あなたにそのテキストとどのような関係をもてばよいか判断するための思考の余地はほとんど残されていない。こうなると、ほとんどモラルハザードの危うさに果てしなく近づくことになる。
3-4 そうした諸々の要因から、あなたはほとんど無自覚に、だがきわめて恣意的に、自らの先入見へと帰ってくる。なぜなら、それは自分由来で、あなたにとってそれ以上考えられないほど直接的でリアルだから。そのようにして、あなたはますます自らの主観世界に閉じこもるという事の次第である。そして、あなたの主観の内なるかりそめの外界を、あなた由来のシャドーが徘徊するのだ。あなたのエゴイズム一人相撲の土俵が首尾よく整った。
さて、ここで、一時代を画した日本のピアノヒーロー園田高広の文章を、彼の没後編集し直し編まれた著作から引用したい。
“〔付記〕 この日記は1960年にみすず書房より刊行されているが、その「あとがき」に著者は以下のように記している(前・後略)。
・・・「日記」というものは、あくまで記録であって、その時の自分の気持を忠実に反映していることに興味があるのだが、期日を経て読み返してみると、色々とその不備なことや思い違いを認めてヘキエキする。文中のいたるところに罵倒あり、軽蔑に満ちているが、これとても自分への反省もあって、その時々の事実への反応の証拠でもある。
しかし音楽会の印象はなかなか的確であるとはいえ、一言も二言も、「ただし書き」を書く必要がある。たとえばカール・ベームはその後も幾度となく聴く機会があり、ベルリンで聞いたブラームスの「第二交響曲」、シューマン「第四交響曲」、ウィーンで聴いた、R・シュトラウスのオペラ「バラの騎士」は讃嘆すべき名演であった。またあまりにも話題の人、カラヤンは、その都度その度ごとに賛否こもごもで、その超人的仕事の量に較べて、我々は彼の演奏の幾十分の一しか聴く機会がないわけであるが、58年のベルリン音楽祭のベートーヴェンの「第五」の名演は特に忘れられない。また今シーズンの特筆すべきは、シェルヒェンの指揮によるシェーンベルクのオペラ「モーゼとアロン」であった。
つまり音楽家の世界は、こうしたことの連続なのだ。出来、不出来、適、不適は大音楽家にも常にある。しかも誰やらがいみじくもいった如く、音楽家が音楽を聴くとき、その心にあるものは、羨望か、軽蔑の二つしかないということ、これは真実を語ってあまりある。・・・(1959年12月 園田高広)”(園田高広『ピアニスト その人生』 春秋社 p. 242,243)
武満徹とも交流があり、当時の日本のピアニストとしてとびぬけた存在であった園田高広が、自らのエゴイズムについて率直に語った一文である。そして、「音楽家が音楽を聴くとき、その心にあるものは、羨望か、軽蔑の二つしかない」という誰やらの音楽家観察に全面的に賛同していることは、極めて示唆的だ。
そして、日本ピアノ界のパイオニアでありヒーローであった園田高広に臆面もなく自らの考えを披歴できるピアニストはそんなにはいない。それができた数少ない一人が清水和音だろう。
“むかし園田高広さんと話したときに「ベートーヴェンを演奏する人間はベートーヴェンについてのあらゆる研究をするべきだ」っておっしゃったけれど、ぼくは「そうは思わない、譜面にぜんぶ書けたからベートーヴェンは天才なんだ」って反論したわけ。園田先生の言っていることはよくわかるよ、ベートーヴェンを愛する人間はベートーヴェンのあらゆることを知りたくなるのはあたりまえだと。だけど、譜面以外のことを勉強すればするほど、たぶん間違えると思う。
だって、天才の行為は、本気でやったことにいちばん表れていて、それはたぶん譜面以外にない。他のことは伝わりかたとして、違った伝わりかたをどんどんしていくだろうし。
「ベートーヴェンがこう言っていた」なんて話はおそらくいちばん間違っている。あてにはできない。だけど、譜面はほんとうのことを言っているから。譜面以外を見ることがわるいと言うんじゃなくて、直接感じとれるのは譜面しかない。しかも、「感じとる」ということが大事だよね。”(清水和音+青澤隆明『ピアニストを生きる - 清水和音の思想』 音楽之友社 p. 47)
ここで清水が明らかにしている園田とのやり取りにおいて、芸術に関わる複数の文脈が交差していることに思い至る。
それに言及する前に、もう一度園田の言葉を引こう。
“何度も弾いてきたためか、「ベートーヴェンの園田」というレッテルが、「ドイツ系」と同じくらい定着した。日本とフランスで学んだあとに、ドイツで長いこと暮らし、ドイツ人気質にだんだんと染まったのは確かである。
ドイツ国内の旅を重ねるうち、深い森にひかれ、ドイツの観念主義的な国民性やロマン精神を理解できるようになった。・・・
E・T・A・ホフマン、ノヴァーリスから、ドイツ・ロマン主義文学に触れながらシューマンの軌跡をたどるうち、彼が若いころ音楽家になろうか、詩人になろうかと煩悶した末、ベートーヴェンの音楽に影響され、ついに作曲家の道を歩むことになったと知った。折もおり、ドイツの指揮者ハンス・ミュラー=クライから、「おまえたちはベートーヴェンをよく演奏するけれども、日本人にとって一番遠いのがベートーヴェンだろう。大体ヘーゲルの弁証法など、最も異質なものではないか」と吐き捨てるように言われ、僕は血が逆流するかと思えるくらい怒った。この屈辱が、ベートーヴェンを徹底的に探究したいと思わせたのだ。・・・
ピアニストにとって、ベートーヴェンは弾きにくい。彼の音楽に妥協がないからだ。ピアノという楽器の性能がやっとまともになってきた時代に、鍵盤の最低音から最高音までを駆使して、鍵盤音楽の頂点をなすと言える『熱情ソナタ』を書いた。まだピアノのメカニックが完成していない中期にすでに、『ワルトシュタイン』を書いている。さらに後期のソナタは、当時の楽器の性能をも超える作品である。いわば「無謀」なその音楽を奏でるには、精神の裏づけが欠かせない。当時の未完成のピアノでベートーヴェンの後期のソナタを弾くということは、その裏の精神性に目を向けずして何を弾くというのだろう? 音の響かないような空虚なポジションを音にすることは、ラフマニノフやショパン、リストを弾くのとはわけが違う。音の裏に隠されているイデー(精神性)を理解しないかぎり、とても鍵盤に手は下ろせない、ベートーヴェンは弾けないのだということに僕が気づくまでには、相当な時間がかかった。そのことを一番最初に骨身にしみて体験したのが、パリで聴いたフルトヴェングラーの演奏だったのだ。このとき、なんでもない和音が背骨に響き渡るように聞こえたことを、よく憶えている。”(園田高広『ピアニスト その人生』 春秋社 p. 110~112)
ベートーヴェンは園田の表現では「イデー」を音化した。だが、当時のピアノはまだ完成途上にあり、「イデー」の音化に十分対応しきれない状態だった。だから、彼は当時のピアノの限界を超えたものを記譜したのだ。園田が「彼の音楽に妥協がない」と言うのはそうした意味だ。
ピアノがその十全な進化を遂げるのは、リストの音楽活動によるところが大きい。ピアノはリストとともに進化した。そして、例えばラフマニノフはその十分に進化した現代ピアノの存在を前提にして、作品を書いたのだ。
いずれにしても、「イデー」と園田が呼んでいるものは、純粋思考であり、霊である。この純粋思考であり霊であるものをベートーヴェンは音化したのだ。
「音の裏に隠されているイデー(精神性)を理解しないかぎり、とても鍵盤に手は下ろせない、ベートーヴェンは弾けないのだということに僕が気づくまでには、相当な時間がかかった」と園田は言う。そして、パリで園田自身が聴いたフルトヴェングラーを引き合いに出して、音楽を媒介にして霊的な出来事がいかに起こるかスケッチしている。曰く、「なんでもない和音が背骨に響き渡るように聞こえた」と。アパリツィオン/apparition ・・・。
だから、対象を演奏家にしぼれば、いずれにしても、演奏家である彼や彼女がいかにして「イデー」に至るか、作曲家が音化し記譜したその作品の「イデー」を彼がいかにしてつかみとるかが、問われるのである。
「譜面にぜんぶ書けたからベートーヴェンは天才なんだ」という清水和音の洞察は、「ピアニストにとって、ベートーヴェンは弾きにくい。彼の音楽に妥協がないからだ。」と語る園田高広と共振している。ベートーヴェンは自ら成した純粋思考を一切の妥協なく、もれなく記譜した。未完成の楽器だったピアノを前に、難聴という障害を克服したベートヴェンが作曲する。
「譜面以外のことを勉強すればするほど、たぶん間違えると思う。だって、天才の行為は、本気でやったことにいちばん表れていて、それはたぶん譜面以外にない。他のことは伝わりかたとして、違った伝わりかたをどんどんしていくだろうし。『ベートーヴェンがこう言っていた』なんて話はおそらくいちばん間違っている。」と清水が警告するとき、彼は譜面から離れるとその作曲者から離れることにつながると危惧しているのだ。譜面以外の何か他のものを媒介にする必要はない、「直接感じとれるのは譜面しかない」と。清水は闇雲な勉強に伴う恣意性と、迷信と予断が醸成する安直なセンチメンタリズムを回避しようとしているのだ。
さらに清水はこうも語る。
“ルイ・ヒルトブランという先生(清水のスイス時代の先生)は、生粋のヨーロピアンだったから、ロシア的価値観も大嫌いで、ラフマニノフが大昔ジュネーヴ音楽院に弾きにきたのを聴いて、「ひどい演奏だった」って激怒しているような人だった。「あんなものは音楽じゃない」って言ってた(笑)。ショパンを弾いたそうだけど、ヨーロッパの価値観でみたら、ラフマニノフのショパンはだめだよね。録音で聴いても、言っている意味はよくわかるよ。だけど、権威崇拝しないところは偉いなと思った。そもそもヨーロッパ人にとって、ラフマニノフやスクリャービンは権威でもなんでもなくて、田舎者の音楽なんだよ、ヒルトブラン先生の世代で言えばね(笑)。
ー でも、そういう良い意味でのエリート意識って大事ですよね。
大事だと思う。もちろん自分とはぜんぜん違うけれど、がちがちのヨーロッパ的価値観というのは、やはり残るべきだと思う。この世界でグローバル・スタンダードみたいなことを言ってはダメだよ、やっぱりそれぞれが土着のものを残して発展していかないと。・・・”(清水和音+青澤隆明『ピアニストを生きる - 清水和音の思想』 音楽之友社 p. 60)
「この世界でグローバル・スタンダードみたいなことを言ってはダメだよ、やっぱりそれぞれが土着のものを残して発展していかないと。」と語る清水。「この世界」とは直接的には、ピアノ演奏の世界ととるべきだが、いわゆる「芸」一般、さらに「芸術」の世界というふうに敷衍することができるだろう。
つまり、芸/アートの核心部分に園田の言う「イデー」、純粋思考であり霊であるものが来ることはもはや疑いようがないとはいえ、霊が芸/アートとして私たちの生きるこの世に姿を現すとき、それは常に私たちの体(たい)を媒介にして現れるということ。そして、私たちの体には否定しようもなくローカルでエスニックな要因が生きているということ。
だからそうした要因を無視して、グローバル・スタンダードを云々することはカテゴリー・エラーも甚だしいということになる。
霊はその顕現ために自らそのために必要な体(たい)を、そう、そのような体をもつ個人を見出す。その直接的な顕現のために創造する人間を、さらに人間によって創造されたものを他の人間に伝える人間を、むしろ人間が霊を見出すというより、霊が人間を見出すのだ。園田高広や清水和音のような人は、そのようにして霊によって見出された。言うまでもなく、他でもないベートーヴェンこそ霊によって見出された。「天才」という言葉が意味を成すのは、そのような文脈においてのみ。
人間の体の個体性、ローカルでエスニックな要因とは異なる文脈が、芸/アートの世界をまた別のベクトルから支配している。
それは、人間が霊をつかみとるという文脈だ。
霊は地球上に存在するあらゆるエスニシティを俯瞰し、霊自らが地上の世界に現れるための器を生み出し得る特定の個人を選び出す。選ばれた個人は、それを自覚し、自らの力で霊に近づくための、そしてつかみとるための営みを成す。
その営みは、選ばれた個人が自らの魂を有機的に変容させ組織化することによって目的に近づいてゆく。芸/アートはそのための他に代えがたい有効な手段/方便だ。魂は芸術によって「整う(ととのう)」。