それは あたかも 一本の木のように ・・・
自我/人間/霊 - アストラル体/動物界 - エーテル体/植物界 - 物質体/鉱物界
“知覚の扉 澄みたれば、
人の眼に ものみなすべて 永遠の実相を 顕(あら)わさん。”(ウィリアム・ブレイク)
ここでブレイクが「知覚の扉/ the doors of perception」と呼ぶものの要が、アストラル体にあることはまず間違いない。なぜなら、アストラル体こそが人間に、知覚/感覚という現象をもたらすから。アストラル体がなければ、人間は意識を失い、何も感じなくなるのだ。
ただし、そのようにアストラル体を媒介にして、知覚し、感じる主体は、人間の自我/霊であることは、片時も忘れてはならない。唯物論をどこまでも貫く自然科学は、この最重要ポイントを、まったく無視する。その結果、恐ろしいほどグロテスクで気味の悪い種々の幻想/迷信をこしらえ上げることになる。
さて、この知覚と認識の要となる媒介としてのアストラル体に、様々なものが介入/侵入してくる。アストラル体が「扉(とびら)」だから、みんなここから入って来ようとするのだ。
アストラル体に入り込もうとする者たちは、みんな、他者である。人間の自我にとって、「わたし/Ich」ではないものたちだ。
彼らは、動物界から来る。植物界から来る。鉱物界からも来る。そして、人間の他者も、わたしのアストラル界に侵入してくる。そして、こうした他者たちは、わたしのアストラル体に何らかの刻印を残すのだ。
そもそもこの地上の暮らしを営むということは、この文脈を含意する。わたしのアストラル体に他者が来るという文脈であり、この文脈をぬきにして、私たちの地上の生活というものは考えることができない。
そして、この文脈の延長上に、次のような問いを立てることができる。
1 物質体はいかなる媒介として機能するのか。
2 エーテル体はいかなる媒介として機能するのか。
1ー1 物質体は、鉱物から成る体(たい)を有する他者に対応する。鉱物的諸力に従って対応する。
1-2 人間の物質体が機能するためには、エーテル体によって生命を賦活される必要がある。それによって無機的な体が有機的な体に変わり、同様に生命を賦活され有機的な体を有するに至った生物としての他者に対応することが可能になる。
2-1 しかし、エーテル体は生命を賦活するのみならず、記憶と思考とが深く展開する舞台でもある。この記憶と思考とはアストラル体、つまり人間の魂を通って、エーテル体に至る。
2-2 記憶と思考とは本質的に同一のものだ。そして、記憶と思考とは、出来事でありカルマの展開であるものとも同一だ。それはフリーズしておらず、不断に変容する。自律性/生命を有するものであるから、エーテル体はこれに対応する。
2-3 つまり、これは本来的にはロゴスであり、生きた思考なのだ。この思考は意志的な思考であり、その生(なま)の姿は衝動に似る。
“初めに言(ことば/ロゴス)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。”(「ヨハネによる福音書」第1章)
3 「ロゴスは宇宙のすべてを生み出す大本(おおもと)である」と、「ヨハネによる福音書」は明言する。それはいわば生命に満ちた神的衝動のようなものであり、そのロゴスがイエスに宿って、人類と共に生き、ゴルゴタの秘跡を成し遂げた、と「ヨハネによる福音書」は物語っている。
3-1 このロゴスのようなものが、私たち一人一人の自我の中に埋め込まれている。