校長先生まで勤め上げた、高村先生。
その訃報を受けて、高村先生に関わった方々の思い出を綴った短編連作でした。
中でも、お嬢さんのエピソードがグッときました。
我が母は市営の保育園で保育士を務めてました。
あの当時は高卒でもなれたみたいで、高校卒業して、就職するでもなしだった時に、市の職員募集で採用されたようです。
で、務めながら資格を取得したのかな?
三人の娘を出産後も続けたのは、義母である、我が祖母と同居だったからできたこと?
市内の園をさまざま巡り、終盤、園長も務め。
子どもが好きだけじゃ、この仕事はできないよ、と。でも、子どもが大好きだったなあ。
市にいろいろうるさく言ったから異動になったのよね。と言ってましたが、
県で初の女性の市福祉事務所長に。
席を横にした人が、卒園児だったのよ、びっくりした。
と話してました。
まあ、40年近く保育士やってたら、そうなりますねえ。
町を一緒に歩いてると、園児や卒園児、保護者さんに会うわけで。おっきな声で、あらあら、と話してました。それがちょっと恥ずかしかったです。
亡くなった時に、我が同級生から、お母さんの園に研修で行って、面倒見ていただいた、とか、妹が通ってたとか、繋がってたことが判明。
葬儀も82歳の老女にしては、多くの方に見送っていただきました。
我が田舎では、亡くなると、訃報欄に名前が出るのですが、出すと大変なことになるから出さないでください、と、妹が業者さんにお願いしていて、正解だったなあと。
娘たちを心配してはいたけれど、進路に関しては、一任で、それは信頼だったのか、諦めだったのか?
そんなことを思い出しました。
