「静岡市の遊郭跡を歩く」の巻 | おざわダイアパー販売のブログ

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おざわダイアパー販売です。

 

ちょっとばかりイロイロありまして、ブログの更新をお休みしておりました。

仕事のネタってちょっとつまんないですよね。

 

最近、遊びがないわけです。

仕事の帰り道ふと目を遣ったおしゃれなバーに、これまたおしゃれカップルが楽しそうにしているわけですよ。

仕事は嫌いじゃないけれど、いかんいかん現状に満足していては、ようやく人生を折り返した(?)ところぢゃあないか。

 

若い頃のように遊びも忘れちゃあいかんのであります。

満足な豚より、不満足なソクラテスってわけです。

 

とまあ、そんなことを考えていたところ面白い書籍を発見しました。

 

「赤線跡を歩く―消えゆく夢の街を訪ねて (ちくま文庫)」

 

静岡の記述は見られませんでしたが、なかなか興味深く拝読いたしました。

 

さて遊郭の歴史はというと、ご存知の通り東京の吉原遊廓、大坂の新町遊廓そして京都の島原遊廓が日本三大遊郭などと呼ばれたりしています。その他にも前述の書籍によると全国各地に存在していたようです。

 

そしてここ静岡と日本3大遊郭の一つ、吉原遊廓とは非常に深いつながりがあったそうです。

徳川家康公が駿府を本拠地と定め天正13(1585)年、築城したのが駿府城でした。家康公は晩年大御所として駿府で余生を送ったこともあり、当時の駿府は江戸に次ぐ繁栄を極めたのでありました。また、多くの大名や武士、農民や町人が集まり城下町を形成しましたが、同時に遊女や女歌舞伎も集まって来たのです。しかし女性が少なかったために争い事が絶えず、家康は彼女らを追放するように命じました。

 

この状況の中、家康公の鷹匠組頭・伊部勘右衛門が、引退と同時に遊郭の設置を願い出たのです。こよなく愛した鷹狩りの鷹匠の願いということで、家康公もOKを出しました。そして勘右衛門は駿府城下に土地1万坪を買い、自身も伏見屋という店を出して遊郭をつくったのです。当時、駿府城下には96か町あり、その内7か町が遊廓であった。その内の5か町分が江戸へ移り、残った2か町が二丁町の由来と言われています。他説では、広さが二丁四方あったため二長町遊郭と呼ばれていたそうです。後にこの一部が江戸に移り、吉原遊郭となったのだそうです。いわば二丁町遊郭は吉原の原型といったところでしょうか。

 

この二丁町は一般には知名度はあまり高くなかったようですが、「東海道中膝栗毛」の一節に記述がありました。

 

『東海道中膝栗毛上: 膝栗毛全集一 (夕陽亭文庫)』(十返舍一九, 夕陽亭馬齡 著) より、

 

"頓てここより壳尻馬に打乘ゆくほどに、かの安部川まちといへるは、あべ川彌勒の手前にて、通筋よりすこし引こみて大門あり。ここにて馬をおり、廓に入て見るに、兩側に軒をならべて、ひきたつるすががきの音賑はしく、見せつきのおもむきは、東都の吉原町におほよそ似たり"

 

なのだそうです。

 

藩政以来の二丁町遊郭はその後、終戦間際の昭和20年6月19日の静岡大空襲により灰燼に帰すのであります。

 

そして戦後になりRAA施設が設置され、昭和33年の売春防止法施行まで続くのでありました。

 

 

残念ながら今となってはその面影はなく、二丁町遊郭跡地の一角に稲荷神社と静岡県地震防災センターが建設されております。ここには地震体験車や防災関係の展示がされております。

 

二丁町遊郭跡(現在の駒形通五丁目)に建てられた『双街の碑由来』によると「江戸時代の初期、長い戦国時代を経て住民の気持ちがすさんでいるところ、この駿府のまちでも男女野合の悪習が盛んに行われていた。」と記されています。なかなか印象的な表現であります。

 

 

何かと忙しく騒がしくもある現代において、ちょっと昔の近所に思いを馳せるのが最近のストレス解消法だったりするのでありました。

 

さて次回は地元金谷の赤線跡について、です。