質問:
過去5年間、私はS・N・ゴエンカの教えに従って、
ダルマギリで、何週間も世間から隔離されて、ヴィパサナを行っていました。
あれほどの苦痛と疑念に苛まれた経験は、一度もありませんでした。
現在、私は非常に意気消沈して疲れ、

自分のハートと繋がりたい、という深い願望を抱いています。
瞑想に対する興味は、薄れてしまいました。
愛する和尚、この種の瞑想の修行は、必要でしょうか?
それは助けになりますか?

また気づきと祝祭だけで、マインドの深みを透徹し、

その最も暗い夜を消し去ることが出来ますか?

 

 

OSHOの答え:

ヴィパサナ瞑想は、ゴータマ・ブッダによって考案された。
そして25世紀にわたって、仏教徒達は、自分自身を痛めつけている。
この瞑想は、ゴータマ・ブッダのような人間にとっては、完璧だった。
常に、憶えておきなさい。
全ては、ある意味で相互に関連し、依存し合っている。
ゴータマ・ブッダと同じ体験が得られる確証がなければ、
私はあなたに、ヴィパサナをやりなさい、とは言わない。
だが哀れなゴエンカには、それが理解出来ない。
彼は、ただのビジネスマンだ。
ヴィパサナがどのようにして考案されたかについて、
彼は一体、何を理解しているだろうか?
ゴータマ・ブッダは、美しい女性に囲まれ、
立派な宮殿の中で、この上もない贅沢な暮しをしていた。
祭りは、夜明けまで続けられた。
昼間は休む為にあり、夜はダンスと酒宴の為にあった。
このような日々に、ブッダは疲れてしまった・・・
彼は、権力と富を手にした者が、
当時、見ることの出来る全てのものを見たが、
平安、充足、沈黙を見い出すことは、出来なかった。
自らを発見することは、出来なかった。
ある夜ブッダは、全くの欲求不満の内に、宮殿を後にした。
なぜなら、人生は数日後、または数年後に、終わってしまうからだ。
人生は、しがみつくに値するようなものではない。
刻一刻と、死が近づいている。
死があなたをつかむ前に、何か永遠なるもの、
不滅なるものを、発見する必要がある。
ゴータマ・ブッダの真理、自己、永遠なる生命の源泉への探究は、
一切れのパンを求めている、飢えた貧しい人の探究とは違っていた。
だが人々は、ゴータマ・ブッダのことを、完全に忘れてしまった。
人々はゴータマ・ブッダの瞑想法だけを、取り出してしまった。
ブッダにとって、世間で考慮するに値するもの、
欲望を抱かせるもの、野望を抱かせるものは、
もはや何も残っていなかったから、瞑想することが出来た。
自分の家を後にした時、
ある意味で、ゴータマ・ブッダにとって世間は終わっていた。
彼は、二度と振り返ることがなかった。
ゴータマ・ブッダは、外面に対する全ての興味を失っていたから、
欲望も雑念もなく静かに坐って、内側に向かうことが出来た。
ゴータマ・ブッダには、人生を体験して
その無意味さを理解する、大いなる機会に恵まれていた。
これによって、彼は内側を乱されることなく、
深い沈黙の内に坐る機会を、得ることが出来た。
ヴィパサナは、そのような瞬間に確立された。
私が、ここでやっていることは、
ヴィパサナのような瞑想法を、直接、あなたに与えることではない。
ここは、苦行者の為の場所ではない
・・・人々は、全てを楽しんでいる。
私は、あなた方が全てを楽しみ、
そして、その無意味さを感得してもらいたい。
私は、あなた方が何度も光明を得ては、
それを失うのを見ていたい。
いつの日か、あなたは疲れ果てて
「もうおしまいだ!」と言うのを、私は知っている。
さもなければ、目を閉じて坐っていても、
美しい女性があなたを追い回すだけだ。
これこそが長年にわたって、瞑想者が体験して来たことだ。
奇妙ではないか。
瞑想を始めると、
突然、どこからともなく、絶世の美女が姿を現わし始める。
目を開いても、誰もいない。
しかも、女性だけではない。
金を知り尽くしていなければ、金についての想念・・・
権力を知り尽くしていなければ、権力についての想念・・・
有名人になることの意味を知り尽くしていなければ、
有名になりたいという欲望・・・
そしてマインドは、千とひとつの想念や欲望を紡ぎ続ける。
自らの体験を通して、快楽が快楽ではなく、単に無知のままに留め、
繋ぎ止めておく為の玩具に過ぎない、ということに気づかない限り・・・
一度、自分自身の体験を通して理解すれば・・・
自分自身の体験でなければならないことが、最も根本的なことだ・・・
憶えておきなさい。
その時、ヴィパサナは、もっとも簡単な瞑想になる。
それを学ぶ為に、ビジネスマンのところに行く必要はない。
ゴエンカのような人々は、幼稚園の教師だ・・・議論の余地もない。
彼らは、瞑想の複雑さを理解していない。
ヴィパサナは、最後に位置している。
ヴィパサナから始めることは出来ない。
ヴィパサナから始めれば、
あなたが言っているように、魂の暗い夜を通過しなければならない。
しかも、どこにも夜明けは見つからない。
暗い夜は、さらに長く暗くなる。
それは、単純な心理学だ。
あなたはまだ、準備が出来ていない。
宿題は終わっていない。
にもかかわらずあなたは、
膨大な体験が前提として必要な作業を、始めてしまった。
過激な人生を歩んで来た者は、ヴィパサナを始める他はない・・・
だが、それは人生の夕暮れにだ。
彼は、昼を通過した。
それは美しかったが、はかなかった。
昼は過ぎ去った。
そしてそこから、
一度訪れたら二度と去ることのないものへの、探究が始まる・・・
さらにヴィパサナは、努力ではない。
それは、単純な体験だ。
人生の過激な昼間の後に、
全ての無意味さを感得した時・・・あなたは、見る他はない。
他人の目を通して、見ることは出来ない。
その無意味さを、自らの目を通して、見ることが必要だ。
そうすれば、何の問題がある?
静かに坐れば、自分自身・・・
自らの内なる中心に、落ち着いてゆくだろう。
ここには、非常に多くの瞑想法が、用意されている。
だが私は、ヴィパサナを一番最後に置いている。
まず、他のあらゆる種類の体験を通過し、
自らを浄化し、ヴィパサナに入る準備を整えるがいい。
人はすぐに、楽園に飛び込もうとするものだ。
自分がどこに立っているかも、
こから飛び込んだら複雑骨折をすることも、分かろうとはしない。
人は、踏み台まで進まなければならない。
しかも一歩一歩、意識的に注意深く進まなければならない。
それは、巡礼の旅だ。
だが、そのような体験は、非常に有益だった。
あなたには、それが必要だった。
今ならば、あなたはよりよく、
私の瞑想法のあり方を、理解することが出来るだろう。
あなたは、「瞑想に対する私の興味は、
薄れてしまいました」と言っている。
瞑想に対する興味ではなく、
ダルマギリに対する興味が、薄れてゆくべきだ。
だが、その記憶はまだ鮮烈だ・・・傷口は開いている。
しばらく待っているだけで、
あなたは数日後には、ここでヴィパサナを始めているだろう。
だが、ここでのヴィパサナは、豊潤な体験だ。
殺伐としたものではない。
私には、仏教国で実践されているヴィパサナに対して、
反論することがいくつかある。
彼らはみな、ヴィパサナを、
殺伐とした砂漠のようなものにしてしまった。
何ひとつ、花開くものはない。
いかなる緑も、存在しない。
全ては、ビジネス化している。
私はあなた方に、瞑想を遊びとして、
遊び心をもってやって欲しい。
あなたにとって瞑想と愛は、同義語であるべきだ。
そして、それをあなたは訊ねている。
あなたは、
「私は自分のハートと繋がりたい、
という深い願望を抱いています」と言っている。
S・N・ゴエンカは、あなたをハートから、隔絶してしまった。
なぜなら仏教徒の伝統に、ハートの占める場所はないからだ。
彼らの実在にいたる道は、非常に殺伐としている。
私は、砂漠を推奨したりはしない。
私は、庭園を推奨する・・・ハートの園だ。
その点において、私は深い敬意をもって、ブッダと道を分かつ。
私は、彼を愛している。
が、だからといって、彼が行ったこと全てに、
同意しなければならない、という訳ではない。
彼の瞑想には、ハートがない。
そして、ハートのない瞑想には、全く価値がない。
私は、笑い、踊ることの出来る瞑想を、望んでいる・・・
私は、今まで瞑想の名のもとに説かれて来たもの全てと、
完全に異なる瞑想を、ここで教えているのだ。

 

        OSHO

 

  Hari Om Tat sat, #28 より抜粋

 

 


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