パーリ語は素朴な、ある意味で無知無教養な人たちの言葉だ。
ヴィパサナはそのような人々の使う単語だ。
サンスクリット語にそれに相当する言葉がある。
世間一般の人たちが都合がいいように変えたのだ。
サンスクリット語では、ヴィパッシヤナとなる。
少し難しくなる。
パーリ語ではたんにヴィッパサナだ。
その意味は同じだ。
意味は文字通り、見ることだが、
隠喩的な意味では、見守ること、観照することだ。
ゴータマブッダが選んだ瞑想は
基本的な瞑想といえる。
ほかの瞑想はすべて観照の変形したものだ。
観照はあらゆる種類の瞑想のなかにエッセンスとして含まれている。
回避することはできない。
ブッダはすべてを削除して本質的な部分のみを、
つまり観照のみを残した。

 

観照には三つの段階がある。
ブッダは非常に科学的に物事を考える。
彼は肉体から始める。
というのも肉体がいちばん観照しやすいからだ。
自分の手があがったり、動いているのを観照するのは簡単だ。
私は自分が道を歩いている様子を観照できる。
歩いているとき、自分の一歩一歩を観照できる。
食事をしている間、観照できる。
だからヴィッパサナの第一段階は身体の動きを観照することだ。
これがいちばん簡単だ。
科学的な方法はすべて必ず簡単なことから始まる。
身体を観照していると新しい体験に驚くだろう。
油断せず注意深く意識的に観照しながら手を動かすと
手の中にあるかすかな優雅さが静寂が感じられるだろう。
観照せずに手を動かすこともできる。
そうすれば動作は早くなるだろう。
だが優雅さが失われる。
ブッダは常にとてもゆっくり歩いていたので
しばしばなぜそんなにゆっくり歩くのか、という質問を受けた。
彼は言った。
これは私の瞑想の一部だ。
いつも冬の冷たい小川のなかを歩くように歩く。
ゆっくりと注意深くするのは川が非常に冷たいからだ。
意識的にするのは、流れがとても強いからだ
一歩一歩を観照するのは、
川の中で石に滑って転びかねないからだ。

 

 

どの段階もやり方は同じだが、対象が変化する。

第二段階はマインドを見守る。
今度はもっと微細な領域に入る。
思考を見守るのだ。
首尾良く身体を見守ることができたら
何も難しいことはないだろう。
思考とは微細な波動、電子波、電波だ。
だが身体と同じように、物質的なものだ。
それは空気が目に見えないように、それと同じように
思考も目に見えないが物質だ。
これが第二段階、中間の段階だ。
あなたは不可視なるものへ入りつつある。
だが思考を見守ることはまだ物質的なことだ。
ただひとつ条件がある。
判断しないこと。
判断してはならない。
判断しだすや否や見守ることを忘れてしまうからだ。
判断そのものに異論があるわけではない。
判断を禁ずる理由は、これはいい思考だ。
その間、観照しなくなるからだ。
あなたは考えはじめ考え込んでしまう。
道路の脇に立って、ただ車の往来をみるように
超然としていることができなくなる。
参加者になってはいけない。
ほめたり評価したり批判しないこと
何が頭をよぎってもいかなる態度もとらない。
雲が空を流れていくように
思考を見守らなくてはならない。
あなたは雲を、この黒い雲は実に悪い奴だ、
この白い雲は賢者のようだ、と判断することなどない
雲は雲だ。
良くも悪くもない。
思考も同じだ。
単に短長波があなたの頭を通り過ぎているだけだ。
いかなる判断もせずに見守ると
極めて驚くべきことが起こる。
観照がしっかりしてくると
思考がどんどん減ってくる。
その比率は、観照する比率と全く同じになる。
もし50%観照できるようになったら
あなたの思考の50%が消える。
もし60%観照できるようになったら
あなたの思考は40%しか残らない。
99%純然たる観照者になったら
ほんの時折ぽつんとひとつの思考が出てくるだけだ。
1%は道を通り過ぎてゆく、それ以外の往来は消え失せる。
あのラッシュアワーのような往来はもうない。
そして100%全く判断せずに、観照者そのものになったら
その時あなたは鏡そのものになっている。
なぜなら鏡は決して判断しないからだ。
醜い女性がのぞき込んでも、鏡は判断を持たない。
美しい女性がのぞき込んでも、鏡は影響されない。
のぞき込む人がいなくても、鏡は誰かを写しているときと同じように純粋だ。
何を写してもかき乱されない。
観照が鏡となる。
ここまで来たら瞑想においては偉業だ。
すでにあなたは中間地点まで進んだ。
しかしここは一番たいへんな所だ。
もうあなたはその秘訣を知った。
それと同じ秘訣を別の対象に当てはめればいいだけだ。
思考からより微細な体験に、感情、フィーリング、気分に。
マインドからハートに進まなくてはならない。
同じ条件が付く、つまり判断せずにひたすら観照することだ。
すると自分を支配している感情。フィーリング、気分に驚くだろう。
今悲しく感じるとほんとうに悲しくなってしまう。
悲しみに支配されてしまう。
怒りを感じると
それは部分的なものにとどまらず
怒りで漲る。
全身全霊がことごとく怒りで打ち震える。
ハートを見守ると
何によっても支配されない状態を体験する。
悲しみは来ては去るが
あなたは悲しくはならない。
幸せは来ては去るが
あなたは幸せにもならない。
ハートの奥深い層に何がやってきても
全く影響されない。

 

 

初めてあなたは主人であることの何たるかを味わう。
もうあなたは奴隷ではない。
あっちこっちに引きずり回わされなくなる。
いかなる感情も、いかなるフィーリングも
いかなる人も
むやみやたらとかき乱すことはできない。

 

第三段階の観照者になれば、
あなたは生まれて初めて主人となる。
何ひとつあなたをかき乱すものはない。
何ひとつあなたを支配するものはない。
あらゆるものが遥か彼方に遥か下の方に留まる。
あなたは丘の上にいる。
これがヴィッパサナの三つの段階だ。
ヴィッパサナにはいろいろなやり方がある。
これはその一つに過ぎない。

 

 

仏教は東アジア全域に広がったので
極東地域のヴィッパサナは構成が違う。
日本では息を吸ったり吐いたりするときに
お腹を見守る。
だから日本の仏像はお腹が大きいのだ。
インドの仏像でお腹が大きいものは一つもない。
日本の仏像は格好が良くない。
見映えもしない。
そうならざるを得なかった。
なぜならヴィッパサナをやるときは
必ずお腹を膨らませる修行をするからだ。
吸息のときに膨らみ
出息のときにへこむ
それを見守る。
日本に広まったヴィッパサナにはそれしかない。
セイロンでは二つの段階がある。
まず息を見守るのは同じだが
ポイントは腹ではなく鼻だ。
息を吸うとき空気が鼻孔に触れる、それを意識する。
呼気が出ていくときも気を配る。
これが第一段階だ。
次に第二段階だ。
息を吸ったら、その息が外向きに変わるまでに隙間がある。
数瞬間休止している。
息が静止している、その数瞬間を見守る。
もしその瞬間を見守ることができるようになったら
その瞬間が外側にあるときも見守れるようになる。
息が出ていき再び入ってくる前にわずかな間がある。
内側と同じ間だ。
それもまた見守る。
ひたすらそれを意識する。
チベットではやり方が違う。
韓国でも違う。
中国でも違う。
いずれにせよ重要なポイントは
観照者になることだ。
私の感じでは
私が語った三段階がいちばん単純で簡単だ。
誰にでもできる。
別に学識や禁欲生活や多大な理解力はいらない。
そしてこの三段階のあとでほんとうの体験がやってくる。
この三段階があなたを寺院の扉まで連れていく。
その扉は開いている。
自分の肉体、思考、ハートを完全に見守れるようになったら、
もうあなたにできることは何もない。
あとは待たなくてはならない。

この三つの段階がまったく完璧になったら
その報酬として第四段階はひとりでに起こる。
それはハートから実存の中心そのものへの量子的飛躍だ。
あなたがそれを行うことはできない。
それは起こる。
これを覚えておきなさい。
それをやろうとしないこと。
たとえやろうとしても失敗することは間違いない。
それはハプニングだ。
あなたが三つの段階を用意する。
第四段階は存在そのものからの報償だ。
それは量子的飛躍だ。
突如としてあなたの生命力があなたの観照が
あなたの実存の中心そのものに入り込んでくる。
あなたは我家に帰り着いたのだ。
それを自己実現と呼んでもいいし
光明と呼んでもいいし、
究極の解脱と呼んでもいい。
だがそれを超えるものはない。
あなたはついに探求の目的地に着いた。
あなたはまさに真理を
そしてその真理が影のようにその周辺
にもたらす法悦をみいだした。

 

ユダヤ人とアイルランド人がセックスについて議論している。
アイルランド人はこう言った。
我々の牧師によると
セックスは単に生殖のための仕事に過ぎない。
そうではない、ユダヤ人は言った。
我々のラビによれば
セックスは快楽だ。
セックスが仕事なら、アイルランド人にやらせるよ。

 

瞑想は仕事ではない。
瞑想はこの上なく純粋な至福だ。
深く入れば入るほど
あなたはより美しい空間に
より燦然と輝く領域に遭遇する。
これこそあなたの宝だ。
深い、より深い静寂、
そこは騒音がしないだけでなく
音無き歌がある。
それは音楽のように
生気に満ちて躍動している。
実存の究極に
台風の中心に至ったときに
もうあなたは神をみいだしている。
それは人ではない。
光だ。
意識だ。
真理だ。
美だ。
何世紀にも渡って人々が夢見たものすべてだ。
そしてこの夢にまで見る宝ものは自己の内側に隠れている。
これは何も大変な拷問のような苦行ではない。
非常に心地よいものだ。
ちょうど音楽や詩のようだ。
しかもそれが次第に純粋な喜びとなっていく。
それは仕事ではない。
祈りだ。
私の知っている唯一の祈りだ。
私にとって祈りとは
あなたが自己の実存に至ったときに
途方もない感謝を存在に対して感じるということだ。
その感謝だけがほんとうの神聖な祈りだ。
ほかの祈りはすべてまがいものだ。
にせものだ。
人間が作ったものだ。
このような感謝が湧き起ってくる。
ちょうどバラの花から芳香が漂ってくるように。

      OSHO

          The Rebel #17

 

 

 

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