こんにちは。治承・寿永の乱第35弾です
これまでのお話はこちらからどうぞ
石橋山から箱根山中を彷徨い、なんとか箱根権現で息をつけた頼朝でしたが、いつまでもそこに長居するというわけにはいきませんでした。
この箱根権現の別当(べっとう、その寺院の最高責任者)である行実(ぎょうじつ)やその弟である永実(えいじつ)は頼朝に好意的でしたが、箱根権現の者のなかにも、平家に縁があったり、平家に遠慮したりして、頼朝の来訪を良く思わない者がおり、決して安全とは言えない場所だったのです。
頼朝を快く思わない者の代表は行実のもう一人の弟であった智蔵房良暹(ちぞう-ぼう-りょうせん)で、良暹は頼朝によって討ち取られた山木兼隆(やまき-かねたか)の祈祷師を勤めていたため、頼朝を憎んでいたのです。
行実は頼朝に言います。
「良暹の武勇については大したことございませんが、良暹が人数を集め、さらに謀をめぐらせて大庭景親(おおば-かげちか)と通じるということにでもなれば、景親らもすぐに駆けつけてきて、御身はいよいよ危うくなることでしょう。早くお逃げ下さい」
そこで頼朝たちは箱根権現から離れることにし、永実が途中まで護衛として付き添い、土肥実平(とい/どひ-さねひら)の本拠地である土肥郷へ向かうことにしました。
しかし、頼朝と合流していた北条時政(ほうじょう-ときまさ)・義時(よしとき)父子は、ここで頼朝と再び別れ、甲斐国へと向かいました。これは『吾妻鏡』によれば、甲斐の源氏に応援を頼む使者として赴いたものであったとされています。
(ちなみに、石橋山敗戦後の北条父子の動きは『吾妻鏡』の記述が錯綜しているせいもあって、不可解な点が多いです。詳しくはまた後日)
やがて、頼朝たちは土肥郷が望める場所までやってきました。
しかし、土肥郷は実平の館をはじめ付近一体に火の手が上がっていました。これは伊東祐親(いとう-すけちか)の軍勢の仕業によるものでした。
土肥実平はこの様子を見て、突然頼朝の前で舞い出します。
「土肥に三つの光あり。第1は八幡大菩薩がわが君(頼朝)を護ってくださる柔らかい光、第2はわが君が平家を討ち滅ぼし、日本全国あまねく照らす光、第3はこの実平をはじめ、君に志しある者が、そのご恩によって子孫繁栄する光なり」
と、燃える火を希望の光と見て、その場にいた者たちを励ましたのです。
みな実平の舞に勇気づけられました。頼朝も実平の舞を見るのはこれが初めてではありませんでしたが、この度の舞は何やらとてもめでたいことのように思えてきて、面白く思えたのでした。
そうこうしているうち、土肥実平の妻から知らせが届きます。
『三浦の人たちは23日に船で石橋山へ向かおうと準備しておりましたが、折しも荒天のため海を渡れずに進軍できず、25日にようやく酒匂宿までやってきました。ところが、石橋山の戦いはすでに(頼朝様が)敗れたと聞いて、やむなく三浦へ引き返したのですが、その途中小坪にて畠山の軍勢に遭遇して合戦となってしまいました。三浦勢は何とか畠山軍を破ったものの、態勢を立て直した畠山は河越氏や江戸氏らとともに、三浦の本拠地である衣笠城を攻め落として、三浦大介(義明)が討死しました。他の三浦の人々は安房国へと渡海して落ち延びたと聞き及んでおります。君(頼朝)が無勢でいまだ箱根の山中に潜んでおられるのを大変心苦しく思います。急ぎ三浦の人々と合流するため、上総・安房国へ赴いてくださいませ』
というものでした。
土肥実平は言います。
「今夜のうちに漁船にて安房国へ向かい、房総半島の大勢力である千葉常胤(ちば-つねたね)や上総広常(かずさ-ひろつね)などを味方につけて巻き返しましょうぞ」
こうして頼朝ら一行は早く安房国へ渡海するため真鶴(まなづる、今の神奈川県足柄下郡真鶴町)へと向かうこととしました。
頼朝たちの敗走ルート
そして、真鶴の小浦(こうら)というところまでやってきました。
ここで漁船を手配し、海へ漕ぎ出す段取りです。
ここでちょっとしたエピソードがあります。
それは出航の間際のことです。
頼朝が、
「烏帽子はあるか。調達するのだ」
と、烏帽子を所望したのです。頼朝一行は石橋山からの敗走中に兜がなくなって、髪は大童(おおわらわ、髷〔まげ〕がほどけてばらばらになった状態)になっていたため、頼朝は三浦の者たちに会う前に、大将らしく身だしなみを整えておきたかったのでしょう。
しばらくして小浦に住んでいる二郎大夫(じろう-たいふ)という古老の者が、烏帽子を10頭ほど用意してきました。
これに頼朝は、
「この烏帽子の恩賞として、国でも荘園でも、そなたが望むものを与えよう」
と大変な喜びようでした。
古老は家へ帰って妻に、
「烏帽子さえ一つも持っていない落人となって逃げ迷っているお方が、やみくもにくださる国、荘園かな」
と、笑って言ったということです。
このちょっとしたエピソードからは、頼朝がどんなに落ちぶれようとも、あくまで源氏の大将としての気位を大切にしていたこと、必ず東国に覇を唱えようとする決意の固さがうかがえます。
でも、戦に敗れて明日をも知れぬ大将が土地をくれてやると言っても、にわかには信じ難いし、おかしな話に聞こえてしまいますよね。古老が笑ってしまうのも無理はありません。
ちなみに、『源平盛衰記』では話が少し違っていて、烏帽子を調達したのは、甲斐国出身の烏帽子商人・大太郎(おおたろう)という者で、後年頼朝は約束通り、この時の恩賞として甲斐国石和(いさわ)の百町ほどの土地を大太郎に与えたことになっています。
さて、いよいよ頼朝は海を渡って安房へ向かいました。
しかし、主従七騎のうち、土肥実平の息子・小早川遠平(こばやかわ-とおひら)は舟に乗らず、伊豆山権現(いずさんごんげん)へと向かいました。頼朝の妻・北条政子(ほうじょう-まさこ)へ、頼朝が伊豆を出発してからこれまでの経緯を知らせるためです。
この頃、政子は難を逃れるため伊豆山権現の僧・文陽房覚淵(ぶんよう-ぼう-がくえん)のもとで保護されていたのです。
後年、政子はこの頃の事を回想して、
「ひとり伊豆山に留まって、君(頼朝)の存亡がわからず、心配で堪らず、まるで魂が消え入るような、生きた心地がしませんでした」
と述べています(『吾妻鏡』文治2年〔1186年〕4月8日条)。
では、今回はここまでです
なんとか死地を脱した頼朝さん。
ここで大庭景親(おおば-かげちか)が頼朝を討ち取れなかったことは、このあとの歴史の流れを大きく変えることにもなりました。
「if」というのが歴史に許されるのなら、この時頼朝が討ち取られていたのなら、どのような歴史が展開されていたのでしょうか。もう一人の源氏の雄・源義仲が結局は平家を亡ぼし、武士の政権を打ち立てたのでしょうか・・・。果たしてどうなっていたんでしょうね
また、この石橋山の戦いは治承・寿永の乱の端緒となった戦いの一つですが、ここで頼朝が一旦敗れたことは、乱の成り行きに影響を与えることになりました。
平家はこの頼朝敗北の知らせを聞いて、遠からず頼朝の首が都に届くであろうと、間違いなく楽観視していたはずです。
でなければあのようなことには・・・。
そういうことを考えると、この石橋山の戦いは単に頼朝が挫折した戦いというだけでなく、治承・寿永の乱で重要な戦いの一つでもあったと考えることができます。
ということで、今回も最後まで読んでいただきありがとうございました
≪参考≫
『長門本平家物語』巻第十「兵衛佐殿安房国に落ち給ふ事」
『延慶本平家物語』第二末「兵衛佐、安房国へ落ち給ふ事」
『吾妻鏡』治承四年八月二十五日条
『吾妻鏡』治承四年八月二十八日条
『吾妻鏡』文治二年四月八日条