石橋山の戦い(前編)【治承・寿永の乱 vol.27】 | ひとり灯(ともしび)のもとに文をひろげて

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治承・寿永の乱第27弾になりますルンルン
これまでのお話はこちらの一覧からどうぞニコ
 
 
 
山木兼隆(やまき-かねたか)を討ち取り、伊豆国で自立への布石を打った頼朝たちでしたが、これで順調な滑り出しとは言えない状況でした。

実はなんとしても倒さなければならない厄介な難敵が兼隆の他に控えていたのです。

それが東伊豆の伊東祐親(いとう-すけちか)と相模の大庭景親(おおば-かげちか)という武士でした。



伊東祐親は東伊豆に勢力を張っている武士で、一説には北条とともに頼朝の監視役を平家から仰せつかっていた武士でした。また、頼朝祐親には、かつて何らかのトラブルがあったとされ、因縁のある間柄だったことが『吾妻鏡』の記述からうかがわれます。
 
そして、大庭景親vol.20でお話したとおり、”東国の御後見(とうごく-の-おん-うしろみ)”として、以仁王の乱に加担した源頼政の子息らを追討し、東国で反平家の動きが起こらないように抑えるべしという平家の意向を受けて、都から本拠地である相模国に帰還してきた武士で、また、相模国に勢力を張る武士団・鎌倉党のリーダー格の人物でもあったため、頼朝にとってこの景親を倒さなければ、自らが当面の目標としている関東制圧を実現することはまず不可能でした。

 

そこで頼朝大庭景親を倒すため、すでに味方として参戦を約束していた三浦氏と連絡をとって、大庭を東西から挟撃することを申し合わせ、頼朝は伊豆国を出て相模国へ、また三浦氏も東相模から西相模へと行動を開始しました。
 
ちなみに、この時代の合戦で、もっとも有効な戦法はなんといっても挟撃して包囲することでした。挟撃は最もオーソドックスな戦法ではありますが、兵力差のある相手に対して有効な戦法で、これが成功すれば頼朝方にも十分勝算がありました。

『平家物語』には”中に取り籠(こ)む”という言葉がよく登場しますが、この”中に取り籠む”とは包囲されることで、”中に取り籠められてはかなうまじ(包囲されては敵わないだろう)”と、当時の武士は包囲されることを最も警戒していました。
 
この時も頼朝勢は一旦現在の小田原市街地に近い早川の河口まで進軍して陣を敷いたんですが、地元の武士団から、
「中に取り籠められ候ひなば、一人も遁るまじ」
と、ここでは包囲される危険性があるとして、来た道を少し戻って山間の地に陣を敷きました。

 
一方、大庭景親もこうした頼朝の動きを見て対策をとり、東伊豆の伊東祐親と連絡を取り合って、こちらは南北から頼朝を挟撃するために出陣したのです。
 
 
治承4年(1180年)8月23日寅卯の刻(A.M.5:00前後)。
頼朝勢大庭勢はそれぞれ石橋山付近に到着し、谷一つ隔てて対峙しました。
 
頼朝勢は伊豆の武士たちに、西相模に勢力を張る武士たち、土肥実平(どひ/どい-さねひら)、その息子である小早川遠平(こばやかわ-とおひら)実平の弟である土屋宗遠(つちや-むねとお)、三浦氏一族の岡崎義実(おかざき-よしざね、三浦義明の弟)、その息子である佐奈田義忠(さなだ-よしただ)などを加えた300余騎の軍勢です。
 
一方、大庭方は総大将に大庭景親景親の弟である俣野景久(またの-かげひさ)、鎌倉党である梶原景時(かじわら-かげとき)長尾定景(ながお-さだかげ)長尾為宗(ながお-ためむね)や、他に海老名季貞(えびな-すえさだ)河村義秀(かわむら-よしひで)渋谷重国(しぶや-しげくに)山内首藤経俊(やまのうち-しゅどう-つねとし)、隣国・武蔵国(現在の東京都・埼玉県・神奈川県の一部)から稲毛重成(いなげ-しげなり)熊谷直実(くまがい-なおざね)久下直光(くげ-なおみつ)岡部忠澄(おかべ-ただずみ)らも駆けつけ、主な者は300人ほど、郎党や家子も含めれば3000余騎にもなる大軍勢です。
 
 
しかし、頼朝方三浦義澄(みうら-よしずみ)率いる三浦勢300騎はいまだ到着しておらず、大庭方伊東祐親率いる伊東勢もやや進軍が遅れていると見え、両者それらの到着を待つ形で対峙し続けました。
 
そして酉の刻(17:00~19:00)になった頃、大庭陣営では軍議が行われていました。
大庭方の武士・稲毛重成は言います。
 
「今日はすでに日も暮れたから合戦は明日か?」
 
景親は答えます。
 
「明日にすると兵衛佐殿(ひょうえ-の-すけ:頼朝)の方に勢いがつくかもしれず、日中、東の方に煙が見えていたが、どうやらあれは三浦の人々が我らに味方する者の屋敷など焼き払っている煙とのこと。もうすぐそこに三浦勢が迫ってきておる。この度の合戦は山岳戦であるから足場も悪い中で戦わなければならない中、両方から挟撃されてはますます良くない。よって今から佐殿(すけ-どの:頼朝)を蹴散らし、その上で明日は三浦勢と戦おうではないか」
 
これを受けて大庭勢は直ちに行動を開始し、鬨(とき)の声をあげて頼朝勢に威勢を示しました。
 
一方の頼朝勢も負けじと鬨の声をあげ、同時に大きな音が出る鏑矢を放ちました。そのため頼朝勢の数は大庭勢に比べて劣るはずなのに、鬨の声は山々にこだまして、大庭勢に劣らぬ兵がいるように聞こえました。
 
 
続いて景親は騎乗のまま前線に出て、頼朝勢に向かって言います。
 
「そもそも近年この日本国に光を放ち、肩を並べる人もいない平家の御世を傾けようと、それを犯そうとするのは誰であるか」
 
これに北条時政(ほうじょう-ときまさ)が応じます。
 
「お前は知らないのか、わが主君は清和天皇の第六皇子貞純(さだずみ)親王のお子様である六孫王経基(ろくそんおう-つねもと)より7代目の子孫、八幡太郎殿(源義家)の御彦孫(ひこまご:ひ孫)、兵衛佐(ひょうえ-の-すけ)殿である。兵衛佐殿はかたじけなくも太上天皇(後白河法皇)の院宣を賜って、その首にかけておられるのだぞ。坂東8か国の者で、誰が兵衛佐殿の御家人でないというのだ、馬に乗りながらあれこれ言うのは、はなはだ奇怪なことである。速やかに馬より下りてものを申せ。(頼朝の)御供には、この北条四郎(時政)をはじめとして、息子の三郎(宗時)、四郎(義時)、佐々木の者たち、土肥、土屋をはじめ、伊豆・相模両国の住人がことごとく参上しておる」
 
景親は返します
 
「昔、八幡殿(はちまん-どの:源義家、頼朝の先祖)の御供をして、出羽国(今の秋田・山形県)の金沢柵を攻めた際、16歳で先陣を駆け、右目を射られながらも矢を射返してその敵を討ち取り、その名を後世に残した鎌倉権五郎景正(かまくら-ごんごろう-かげまさ)の子孫である大庭景親を大将軍として、兄弟親類3000余騎の軍勢である。そちら様の兵数こそみすぼらしく見えますぞ。どうして我らに敵対なさるのか」
 
時政もまた返します。
 
「そもそも景正が子孫と申すのか。さぁこれで子細はわかった。それならばどうして三代相伝の主君に刃向かい、弓を引き、矢を放つのか。速やかに引き退かれよ!!」
 
景親
 
「(頼朝が)主君ではないとは申さぬ。ただし!昔は主で今は敵である。弓矢を取るのも取らぬのも、恩こそが主君である。今は平家からの御恩が山より高く、海より深いものである。昔を懐かしんで降伏などするもんではない!」
 
 
両者一通りの言葉争いを交わすと、時は満ちました。いよいよ開戦です。
頼朝はまず誰に先陣をきらせるか思案し始め、傍らにいた岡崎義実に尋ねました。
 
 
 
 
さて、今回は中途半端ですがここまでです音符
最後まで読んでくださってありがとうございましたニコニコバイバイ
 
 

 
 

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