平家による延暦寺懐柔 【治承・寿永の乱 Vol.10】 | ひとり灯(ともしび)のもとに文をひろげて

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治承・寿永の乱、第10弾ですルンルン

これまでの話はこちらから。

 

 

平家は延暦寺、園城寺、興福寺・東大寺をはじめとする南都の有力寺社といった勢力が以仁王(もちひと-おう)のもと反平家で結託する事態を憂慮して、これらの切り崩しを図りました。

 

これらが一緒になって平家を攻撃してくれば、当時政権を握っていた平家にとっても大きな痛手で、面倒な事になりかねませんでした。

 

 

そこで狙いとされたのが比叡山延暦寺です。

延暦寺はもともと園城寺とは長年「山門寺門の抗争」と言われる対立関係にあり、時の天台座主(延暦寺における最高位の僧職)・明雲(めいうん)が親平家の立場であったこともあって、延暦寺が中立の立場をとるのを期待したのです。

 


『延慶本平家物語』によれば、平家は比叡山への往来に近江の米

3000石を寄せ、明雲の承諾を得た上で合計絹3000疋を園城寺との共闘をやめるよう書いた文書とともに延暦寺の各御坊(僧坊)へ1疋ずつ投げ入れたところ、思いがけず絹を得た僧兵らは心変わりして、たちまちに園城寺との共闘をやめてしまったといいます。

 

この話の真偽は定かではありませんが、『玉葉』の治承4年(1180年)5月25日条に明雲が比叡山に登山して衆徒らへ園城寺を攻撃することを語ったところ、大半がそれを承諾したらしいとする記事が見えることから、どのような形で説得が行われたか判明しないものの、平家の狙い通り、この時点で延暦寺が以仁王勢力から離脱したのがわかります。
 

 

さて、ここでこれまでのお話を整理する形で、人物・勢力相関図を作ってみました。

 

以仁王の乱に関わっている主要人物のみを載せたつもりですが、結構複雑になってしまって相変わらずゴチャゴチャしちゃってますが、見て参考にしていただければ幸いです^^

 

ほんとは平家一門や頼政の息子たち、渡辺党の武士はかなりの人数がいるんですが、割愛させていただきました。

 

やはり注目は以仁王と八条院(はちじょう-いん)周辺の関係です。

 

以仁王派の人物たちの繋がりが八条院を中心に形成されていることがおわかりいただけると思います。

 

 

では今回はここまでです。お読みいただきありがとうございました。

次回はいよいよこの以仁王の乱のクライマックス、平家方と以仁王方が激突します。

 

 

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