六波羅夜襲 【治承・寿永の乱 Vol.9】 | ひとり灯(ともしび)のもとに文をひろげて

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治承・寿永の乱、第9弾ですルンルン

これまでの話はこちらから。

 


園城寺(おんじょう-じ)にて、以仁王(もちひと-おう)はじめ園城寺の衆徒と合流した源頼政(みなもと-の-よりまさ)・仲綱(なかつな)らの武士たちは、戦の機先を制するため、平家の拠点の一つである六波羅へ夜襲を仕掛けることを提案しました。

夜襲の計画としては、まず頼政指揮のもと、戦力にならない老僧たちに松明を持たせて如意山を越え、白河付近に放火することで陽動作戦を展開、その間に仲綱・兼綱(かねつな)、渡辺党(わたなべ-とう)の武士たちをはじめ戦力になりうる僧兵たちが別動で六波羅へ夜襲を仕掛けて清盛を討つというものでした。


しかし、この夜襲を決行するに当たって、衆徒らとの評定は難航しました。園城寺衆徒らの間で夜襲に慎重な者と実行すべきとする者とが対立したのです。

この時の様子について『延慶本平家物語』には、平家の祈師となっていた一能房心海(いちのう-ぼう-しんかい)が平家の軍勢の多さや失敗した時の影響を述べて慎重論を主張したのに対して、乗円房(乗因房)慶宗(じょうえん-ぼう-けいしゅう)が自らの衆徒は園城寺に帰らぬと覚悟を示し、実行すべきであると主張して対立したと記されています。


結局、慶宗らの主張が通って、夜襲が実行に移されることになりましたが、時は五月。夜が短い季節とあって、すでに東の空が明るくなりはじめてしまったのです。

そこで夜襲部隊の仲綱は兵を引くことを下知、円満院大輔(えんまん-いん-の-おおすけ)が夜襲続行を中国の故事を引き合いに出して進言するものの、聞き入れられず夜襲は未遂に終わってしまったのです。

帰路、夜襲強硬派の僧兵らは、夜襲が失敗したのは慎重論を展開して、いたずらに時を費やした心海らに責めがあるとして心海の僧房を破却するという挙にでました。

この時心海らも激しく抵抗したため双方多数の死傷者を出す事態に・・・。

結局、心海らは命からがら六波羅へ逃げ、この一件を平家に報告しました。しかし、六波羅にはかねてより多数の兵力を配備していたため、騒ぎにはならなかったそうです。


さて、この六波羅夜襲未遂事件について。

この事件は『平家物語』や『愚管抄』(巻第五・安徳)には記されていますが、『玉葉』や『山槐記』といった当時の貴族の日記には記されてはいません。『玉葉』や『山槐記』には巷説(ウワサ)なども記されていることから、触れられていてもおかしくないはずですが見当たりません。そのため、六波羅夜襲未遂が実際のことであったかはわかりません。

ただ、この頃、都周辺で不審火が相次いでいたようです。

 

この不審火が以仁王らの仕業かは定かではありませんが、頼政の持仏堂が燃えたり(『吾妻鏡』治承4年5月24日条、山科にあった後白河法皇の離宮が燃えたり(『山槐記』治承4年5月23日条していますので、それだけ都周辺はとても治安が悪化、緊迫した空気に包まれていた様子が伺えます。

 

そうした中で、以仁王方が夜襲を計画する、なんて話があっても不思議ではないですね。

 

 
以仁王の乱 関連地図2

 

今回の話に関連する地図を作ってみました。

良かったら参考にどうぞ。地図は適当な箇所満載ですが、拠点の位置関係は大体合ってると思います。

 

それにしても、今回の地図は試行錯誤しました~。

 

最初は手書きで書いたんですが、色を塗ったらゴチャゴチャしちゃってわかりにくくなってしまったので、PCのペイントで書き直ししました。

これも結構ゴチャゴチャしてますけどね(笑)

 

 

それでは、今回はここまでです。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

 

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